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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:関所





タモリさんたちは関所を出て、宿場町があった場所に向かいます。
今は宿場町の面影はありませんが、江戸時代の痕跡が見られます。

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この道は箱根駅伝の5区のルート。

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小さな川にかかる「小田原橋」が江戸時代の痕跡?

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この辺りは小田原宿の人たちが集まって住んでいたところ。

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箱根宿は小田原宿と三島宿の人が移り住み、新たにできた町だった。

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今でも町の字名(あざな)は小田原町と三島町。
橋は小田原町にあったので、小田原橋。

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幕末の箱根宿。

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箱根宿は山越えの休憩場所として幕府が造った町。
両隣の宿場町から住民を強制的に移住させた。

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旅人は小田原宿を朝出発して、箱根の山を登り、箱根宿でお昼ご飯、その後は三島宿もしくは沼津宿まで行く、というのが一般的な旅の行程。

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幕府はあえてこの険しい山越えルートを指定した?

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江戸時代の道(赤)と江戸時代以前の道(黄色)。

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尾根道(黄色)は水はけがよく見晴らしの良い道。
谷道(赤)は暗くてぬかるんだ歩きにくい道。

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タモリさんたちは実際に山越えの街道を登ってみます。

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石畳の急斜面を登る一行。

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道の方向に対して斜めに敷かれた大きな石。

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道が崩れないように排水させている。

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道の端には側溝もあった。

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悪天候が役立つ。

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幕府はあえて険しいルートを選ぶことで、関所越えは大変だというイメージを植えつけた。

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ところで、先ほどタモリさんは関所を避けて迂回するルートがあるのではないかという疑問を投げかけていました。

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その疑問を解くため、タモリさんたちは東海道沿いの町、畑宿にやってきました。

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畑宿は箱根寄木細工の発祥の地。

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畑宿の職人、石川仁兵衛が作り始めたとされる。
江戸時代から旅人のお土産だった。

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寄木細工職人と関所との関係を知るため箱根寄木細工の工房を訪れます。

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7代目の寄木細工職人石川一郎さんに話を伺います。

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箱根関所跡からスタート。

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あいにくの雨模様。

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寄木細工のタモテバコ。

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旅のお題は「鉄壁!箱根の関所はなぜ破れない!?」。

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タモリさんは箱根の関所は有名無実だと思っていた。
お題とはまったく逆のイメージ。

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最初の案内人は、箱根関所長の大和田公一さん。

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箱根に関所が置かれた250年の間に関所破りをした者は5人。
そのいずれもが捕まっている。

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箱根の関所は江戸時代最も通行量が多かった東海道の関門の一つ。

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一番の難所だった山越えの道、箱根八里の中間
点に関所は置かれていた。

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箱根八里と言われると、国民の大半は氷川きよしを思い出すような気がするw

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箱根の山は天下の険♪
「箱根八里」という題だったのか…。

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「箱根八里」の歌詞の「一夫関に当たるや万夫も開くなし」とは、一人の兵が関を守れば万人でも攻め落とすことはできない、という意味。
箱根の関所は鉄壁だった。

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現在タモリさんたちがいるのは京都側の関所の前。

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今の国道1号は昭和になって作られた道。
江戸時代は山でした。

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特別に門番とお役人付きで関所の門を通過。

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発掘調査の後、江戸時代そのままの形で復元された箱根の関所。
門と門の間のわずか38mが旅人にとっての大きな関門でした。

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ここで旅人はチェックされる。

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武器を展示して旅人を威嚇。

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柵だけは一部しか再現できなかった。

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江戸時代は山から湖の中まで柵が続いていた。

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関所の立地を確認するため、タモリさんたちは高台を目指します。

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