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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:鎌倉

 名もなき研究者を調査した件

 サザエさんじゃんけん研究家

サザエさんじゃんけん研究所、所長高木啓之さん。

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研究所(自宅)。

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27年間サザエさんじゃんけんに勝つための研究をしている。

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研究の成果は着々と上がっている。

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直近の前回、前々回の出す手によって、最新回に出す手に偏りがある。

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例えば、前々回グー、前回グーと来たら、最新回はパーが出る確率が高い。
チョキを出せば負けることはない。

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リアルタイムでサザエさんに挑む。

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前回、前々回はパーだったので、高木さんはグーを出す。

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高木さん勝利。

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無表情でハイタッチw

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 野球指導研究家

芸能人のものマネをしながら、一流選手のフォームを身につけるという独特すぎる指導法。

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ヤベェやつ来たと思いませんでした?

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完全に誘導尋問w

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リトルリーグでふざけたことすんなw

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 狸の腹鼓研究家

滋賀県信楽町の奥田勉さん。

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狸の腹鼓大会というのがある。

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現在3連覇中w

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腹毛が濃い。

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理想の音を出すために腹毛を剃って、腹を濡らす。
そういうコンビ芸人いたな。

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 コウモリ語研究家

3回目の出演の小野寺秀和さん。

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まず配役をきめるw

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冒頭。

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コウモリ界ではお決まりのやり取りw

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次に子供は「スズメの学校」を歌っている。

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練習の成果をお母さんと友達に聞かせている。

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そして、後輩が先輩に言う。

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そして、この発言を受けた先輩は、コウモリ界のビートたけし…?

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こうなるw

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この研究は想像力勝負だなw

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東京湾・アクアライン近くの海上で水蒸気爆発。

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左に川崎人工島(風の塔)。

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ゴジラ、第一形態(尻尾?)。

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多摩川河口に進入。

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東京都大田区 呑川・旭橋

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同 呑川・新橋

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同 蒲田に上陸。

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第二形態。

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大田区から品川区方面に北上。

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マンションでつかまり立ち。

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陸上自衛隊 木更津駐屯地。

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北品川付近で第三形態。

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京急本線北品川駅。

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宙を飛ぶ車両。

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第三形態は直立二足歩行。

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八山跨線線路橋。

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陸上自衛隊の対戦車ヘリと対峙。

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まだ人がいたので攻撃中止。

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首都高羽田線を破断し、京浜運河から東京湾へ。

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夜。

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翌朝、京急を除く都内各路線再開。

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街は平穏を取り戻したかに見えた。

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大田区の災害現場。

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相模湾沖 ゴジラ探索中。

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巨大不明生物の呼称は「ゴジラ」。

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ゴジラ、鎌倉に出現。

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第四形態。

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鎌倉市・稲村ケ崎に再上陸。

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鎌倉 七里ヶ浜。
今回の旅のお題は、「鎌倉が観光で発展し続ける理由は?」。

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最初の案内人は、長谷寺で働く学芸員の三浦浩樹さん。
江戸時代の鎌倉を研究されてるそうです。

 江の島

三浦さんによると、鎌倉が観光で発展したきっかけになったのは、”江の島”なのだそうです。

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 歌川広重作(1847~52)

江戸時代、江の島参拝の帰りに鎌倉に立ち寄るのが人気の観光ルートだったそう。

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歌川広重作(1844~47) 七里が濱真景(砂地の黒い部分は砂鉄) 

一行は七里ヶ浜から鎌倉の玄関口に向かいます。
江戸時代、お茶屋さんだったという一軒の民家。
ここには当時を物語る貴重な資料があります。

江戸時代、茶屋で売っていた江の島から七里ヶ浜を描いた絵図、今でいう観光マップだそうです。
茶屋のお年寄りの女性が道案内をしていたので、「ばばあ茶屋」と呼ばれていたそうです。

 極楽寺切通し

一行は江戸時代の観光ルートに従って歩いてみることにします。
まず向かったのは、鎌倉市街地への入り口、極楽寺切通し。

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極楽寺切通し

切通しとは山を切り崩して通りやすくした道のことをいいます。
山が多い鎌倉には、7つの有名な切通しがあります。
その中でも極楽寺切通しは江ノ島と鎌倉を往来する定番のルートです。

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切通しの階段を登りきると、由比ヶ浜が望めます。
坂を下れば長谷の大仏へ。

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切通しを抜けたところに江戸時代創業の和菓子屋「力餅家」。
写真左手の石碑には「長谷観音への近道」と彫られています。

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 名物の力餅をほおばり一休み。

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 長谷寺(鎌倉の大仏)

近道を抜けて長谷寺へ。

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国宝に指定されている鎌倉の大仏。

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写真左に柱の跡、大仏のすぐ後ろに江戸時代に修復されかけた蓮弁が見えます。
蓮弁は4枚作られたところで、とん挫した模様。
 
鎌倉・江の島 (楽楽)
ジェイティビィパブリッシング
2014-03-20

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 材木座海岸と和賀江島

800年前の海側の「まちづくり」を見るためにタモリさんたちがまずやってきたのは材木座海岸。

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 突風によろめく桑子アナ

ここで案内をしてくれるのは、神奈川災害考古学研究所の上本進二さんとNPO古田土俊一さんです。
 
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”こだと”と読みます。栃木や茨城に多い苗字らしい。

古田土さんが海岸で探していたのは、鎌倉時代の器の破片。 
材木座海岸は遠浅の砂浜なので、川から流れてきた様々な時代の器の破片が岸に打ち寄せられるのだそうです。
 
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しかし、遠浅の海岸にはデメリットもあります。
それは、水深が浅すぎて船が入りにくいということ。
 
そこで鎌倉時代の人たちは港を築きました。

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「和賀江島」は日本最古の築港跡だそうです。

丹沢や伊豆・箱根から運んだ石を使い埋め立てをしたのです。
地元の石は風化に弱いので使えなかったようです。

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波食(触)台(波が削った海面近くの岩盤)の上に石を積み上げ、1ケ月で「和賀江島」を築きました。

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潮が満ちると、敷き詰められた石はほとんど海面の下に隠れてしまいます。

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「和賀江島」はその後何度も改修を加えられながら、鎌倉の海の拠点として使われてきたそうです。
 
 和賀江島築港による地形変化

続いて一行がやってきたのは、「和賀江島」のすぐ近くにある海沿いの道。
上本先生によると、和賀江島の築港によって、地形変化が起きたのだそうです。 

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海沿いの道を歩くと標高が3.7m⇒6.2m。
実は高い場所は昔の砂丘の上。

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和賀江島を作ったことにより、海岸に砂がたくさん堆積するようになったのだそうです。 
その砂によって沿岸の砂丘が大きく成長することになりました。

その地形変化の特徴を示しているのが一軒のお店。

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 「土手」という名前の蕎麦屋さん。

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お店のご主人に話を聞くと、このあたりが材木座の土地で一番高い土手だったとのこと。
土手は屋号だそうです。
関東大震災の際も津波はここ(土手)までは来なかったらしい。
ご主人はご先祖の供養のために「土手」の名を残したのだそうです。 

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まずタモリさんと桑子真帆アナが向かったのは鶴岡八幡宮前から歩いて10分の線路沿いにある小さな路地。

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ここで解説をしてくれるのは、東京大学史料編纂所 准教授の高橋慎一郎先生。
このあたりは扇谷というところですが、”おうぎがやつ”と読むそうです。
谷はヤツと呼ばれていたのだそうです。
「今日はヤツっていうヤツが中心になります」。
高橋先生はダジャレがお好きなようです。

鎌倉にはこのヤツが200以上存在するそうです。 
そして、高橋先生によると、かつてはほとんどのヤツにお寺や武家屋敷があったのだそうです。

一行はかつてヤツにあった武家屋敷の痕跡を見るために浄光明寺(1251~52年創建)に移動します。
浄光明寺は、元は北条氏のお屋敷だったのだそうです。

実は15年前、この浄光明寺の近所の民家でとてつもない大発見があったそうです。
それがこれ。

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浄光明寺敷地絵図

鎌倉時代の「鎌倉中」を描いた絵図として唯一現存。
国の重要文化財にも指定されています。

*鎌倉中:山に囲まれた平地部分。当時はこの鎌倉中に現在の倍の10万人が住んでいたそう。

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山が多い鎌倉で敷地を確保するため、当時の武士たちは山を切り開いて平場を作りました。
このあたりの岩は比較的掘りやすい凝灰質砂岩(鎌倉石)なのだそうです。
削りやすく火に強い性質を持っています。

鎌倉は平地が少ない場所なので、墓地は山を切り開いた場所に作ったのだそうです。
墓地と石切り場を見た後、一行は地蔵院(絵図中央上)を目指して急な石段を登ります
石段を登りきると造成された平場になっており、岩壁をくりぬいた堂にお地蔵様(1313年)が安置されています。

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さらに一行は鎌倉石の崖を背景にした庭園に案内されます。

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元々は場所を作るために切った崖だったのですが、その風合いを生かして庭園にしたのだそうです。

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