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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:砂丘

萩城下町からスタート。

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林田アナは松陰神社に来たことがある。
タモリさんはたぶん初萩。

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萩といえば色合いが美しい萩焼。

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旅のお題は「萩はなぜ世界遺産になった?」。

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案内人は萩博物館館長、清水満幸さん。

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世界遺産に登録された萩城下町。

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2015年「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録される。
城跡や屋敷、町並みがセットで残っていることが高く評価されました。

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毛利輝元(1553~1625):
戦国時代中国地方を統一した毛利元就の孫
関ヶ原の戦いでは西国の総大将となる

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関ヶ原の戦いに敗れた輝元は広島を追われ、萩に一から城下町を築きました。

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オープニング。

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タモリさんたちがいるのは萩城に続く江戸時代のメインストリート。

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1600年代に建てられた商家、菊屋家住宅

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昔の雰囲気が残っている路地。

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江戸時代の石組み。

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萩の町から4人の総理大臣が出ている。

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伊藤博文、山形有朋、桂太郎、そして…

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ジャストのタイミングで4人目の生家に着くw

田中義一:萩の下級藩士の家に生まれる
陸軍大臣などを経て、第26代内閣総理大臣

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タモリさんのお祖父さんが田中義一を尊敬していてタモリさんは森田義一になる予定だった。
でも、義一だと義と一の画数の差が大きく頭でっかちな子になると言われ、義と一をひっくり返して「一義」となる。

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ここから萩の地形の話。

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海に向かって高くなっている萩の地形。

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砂丘?

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萩は大きな2本の川が作った三角州の上にある。

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土砂がたまっただけなので、地盤が弱く町を作るには不向き。

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ところが、日本海からの強い風で砂が吹き上げられてたまり、大きな砂丘ができました。
城下町は地盤の強い砂丘の上にある。
では、低地はどうなっていたのか?

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タモリさんたちは砂丘の上の城下町から1キロほど離れた場所に移動します。

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市役所、消防署、郵便局などがある萩の町の中心部

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日本一長い信濃川をバックにスタート。

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重要文化財、萬代橋は全長306.9m、昭和3年完成の6連アーチ橋。

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今回のブラタモリは新潟。
タモリさんも言っていましたが、長岡(へぎそば、花火大会)や佐渡(佐渡おけさ、金山)はイメージありますが、新潟市はあまり思い浮かぶものがない。
米どころ、新潟の女性は働き者ぐらい?w

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案内人は路地連新潟(まち歩き愛好家)の野内隆裕さん。
今回のテーマは「新潟は”砂”の町!?」。

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野内さんによれば、新潟は信濃川と阿賀野川から運ばれた砂の上にできている街なのだそうです。

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まずタモリさん一行がやってきたのは日本海に近い住宅街
タモリさんが好きな高低差がありました。

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坂の上は小高い丘。
実はここは砂丘でした。

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日本海に沿って、日本最大級の新潟砂丘がありました。

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高所(展望台)に上ることになり、ご機嫌斜めのタモリさんw

江戸時代の信濃川は現在よりも大きく、現在の町の中心部はかつての信濃川の中州あたり。
江戸時代の町は砂丘のすそ野にあったそうです。

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江戸時代は、砂丘の上に寺が並んでいました。
現在は、かつての中州のキワに30近い寺が並んで建っています。

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これは砂が堆積して川底が浅くなり、港としての機能を果たせなくなったため、町が配置を変えずに丸ごと中州に移動してきたため。

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大胆な町づくりはこれだけではありません。
町中に縦横に堀を作り、町全体を港として機能させたのです。

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堀があれば、船で荷物を運ぶことができます。

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堀は戦後すべて埋められました。
人情横丁は堀を埋め立てた上に建てられた商店街です。

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人情横丁で一休み。
ギンダラを食べていると急に雨が。

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新潟は雨がよく降るというイメージあります。

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続いてタモリさんたちがやって来たのは新潟の繁華街。
古町はかつて日本有数の花街でした。

鍋茶屋は弘化3年(1846)創業の料亭。

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お水でご接待をうける。

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お座敷遊びも体験。

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小唄にロシア語(ハラショー)があるのも、新潟が貿易港として栄えた証 。

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 材木座海岸と和賀江島

800年前の海側の「まちづくり」を見るためにタモリさんたちがまずやってきたのは材木座海岸。

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 突風によろめく桑子アナ

ここで案内をしてくれるのは、神奈川災害考古学研究所の上本進二さんとNPO古田土俊一さんです。
 
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”こだと”と読みます。栃木や茨城に多い苗字らしい。

古田土さんが海岸で探していたのは、鎌倉時代の器の破片。 
材木座海岸は遠浅の砂浜なので、川から流れてきた様々な時代の器の破片が岸に打ち寄せられるのだそうです。
 
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しかし、遠浅の海岸にはデメリットもあります。
それは、水深が浅すぎて船が入りにくいということ。
 
そこで鎌倉時代の人たちは港を築きました。

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「和賀江島」は日本最古の築港跡だそうです。

丹沢や伊豆・箱根から運んだ石を使い埋め立てをしたのです。
地元の石は風化に弱いので使えなかったようです。

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波食(触)台(波が削った海面近くの岩盤)の上に石を積み上げ、1ケ月で「和賀江島」を築きました。

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潮が満ちると、敷き詰められた石はほとんど海面の下に隠れてしまいます。

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「和賀江島」はその後何度も改修を加えられながら、鎌倉の海の拠点として使われてきたそうです。
 
 和賀江島築港による地形変化

続いて一行がやってきたのは、「和賀江島」のすぐ近くにある海沿いの道。
上本先生によると、和賀江島の築港によって、地形変化が起きたのだそうです。 

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海沿いの道を歩くと標高が3.7m⇒6.2m。
実は高い場所は昔の砂丘の上。

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和賀江島を作ったことにより、海岸に砂がたくさん堆積するようになったのだそうです。 
その砂によって沿岸の砂丘が大きく成長することになりました。

その地形変化の特徴を示しているのが一軒のお店。

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 「土手」という名前の蕎麦屋さん。

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お店のご主人に話を聞くと、このあたりが材木座の土地で一番高い土手だったとのこと。
土手は屋号だそうです。
関東大震災の際も津波はここ(土手)までは来なかったらしい。
ご主人はご先祖の供養のために「土手」の名を残したのだそうです。 

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