Halohalo online

ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:流川



不老泉からたどってきた古い道の先の暗渠はどこにあるのか?

bepp47
 
タモリさんたちは暗渠を探しに行きます。

bepp49
 
右と左、どちらが暗渠か?
左の方が低いから水が流れそうですが、右の道の曲がり方も気になります。

bepp50

タモリさんは右の道を選びましたが、やはり左の方が低くなっています。

bepp53

タモリさんは地図上で左右の道の間に建物の並び方が不自然なところを見つけました。

bepp54

その場所に行ってみます。

bepp55

空き地のような場所に暗渠を発見。

bepp58
 
タモリさんの予想通り、建物の間が流川の暗渠でした。

bepp57
 
左の道(青)に流川の水面が見られる場所がまだ残っていました。

bepp59

 別府の砂蒸し風呂。

bepp60

続いてタモリさんたちがやってきたのは流川通りの突き当り。
ここで温泉町・別府の新たな戦略を探ります。

bepp61
 
港までまっすぐ突き抜ける流川通り。

bepp62

そして、流川通りの突き当りには遊園地

bepp63

市街地の整備が完了した昭和の初め、様々な観光娯楽施設が造られました。

九州の宝塚と呼ばれた華やかな少女歌劇団。

bepp64

高さ24m、当時東洋一の大きさを誇った別府大仏。

bepp65

昭和4年、子供も楽しめる施設として作られた別府遊園地。

bepp66

しかし、この山は遊園地を造るために開発されたものではありません。

bepp67

遊園地ができる前にあったものとは何か?
遊園地の裏山を登ると温泉がありましたが、これ以外の施設がかつてあったそうです。

bepp68

湯気が出ている穴。

bepp69
 
古い地図を見ると、ここがかつて金山だったことがわかりました。

bepp70

別府金山:
明治36年~大正5年
金や銀を産出 
最盛期200人以上働いていた

bepp71

しかし、ある理由で金山を閉山しなければならなくなりました。
その理由を知るためにタモリさんたちは坑道に向かいます。

bepp72

坑道の入り口から湯気が出ています。

bepp73

中に入ると、熱い。
45℃ありました。

bepp74

閉山の理由を身をもって体験しました。
現在ここはサウナとして使われているそうです。

bepp75

続きを読む



海地獄からスタート。

bepp1

タモリさんは60数年ぶりの再訪。
思い出はおばあさんに「言うこと聞かないと地獄にほうりこむぞ」と脅かされたことだけw 

bepp4
 
別府の地獄とは、高温の蒸気や温泉が自然に湧き出す場所のこと。
海地獄は含まれる鉱物に光が反射して青く見える。

bepp6

海地獄の温度は約98℃。

bepp5
 
旅のお題は「巨大温泉都市・別府はどうできた?」。
案内人は前回に引き続き別府市教育委員会の永野康洋さんです。

bepp7

江戸時代、温泉番付では前頭6枚目だった別府温泉。
なぜその別府が横綱級の巨大温泉都市に発展したのか、その秘密を探っていきます。

bepp8

別府の三毛猫。

bepp9

タモリさんたちは別府村と呼ばれていた海岸近くの通りにやってきました。

bepp10

何かを発見した二人。

bepp11

極めて不自然な場所でコーヒーを飲む女性w

bepp12

熱海の回でお世話になった先生でした。

bepp13

京都府立大学の松田法子先生。
先生は学生時代から温泉町別府の成り立ちを研究しているそうです。

bepp20

路傍の石垣に目をつけるタモリさん。
 
bepp19

低い石垣は港まで続いています。

bepp15

赤い線が石垣のあるところ。

bepp16

石垣は、港に作られた防波堤の痕跡でした。

bepp17
 
明治4年、別府村に大きな船が停泊できる近代的な港が完成。
遠くからも温泉を楽しむために客が来るようになり、海岸沿いには旅館や共同温泉が作られました。 

bepp18

さらに2年後、大阪との定期航路ができました。
関西と直接つながった別府村は急速に発展しました。

bepp21

当時港周辺の砂浜は、砂蒸し風呂になっていました。

bepp23

上の写真が撮られた場所と思しきところで、追体験してみます。

bepp24

近江アナと松田先生のポーズが、子供と大人w

bepp25

当時の写真を見ると、女性はおっぱい丸出し。

bepp26

昔はおっぱいの価値が低かった?

bepp27

続きを読む

このページのトップヘ