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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:河岸段丘


JR浜松駅の新幹線のホームからスタ-ト。

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浜松市は静岡県の西の端にあります。

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最初の案内人は浜松市役所の太田好治さん。
自己紹介が新幹線の轟音でかき消されるw

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全世界的に流行っている?駅ピアノ。

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さすが藝大の人。

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ドラムロール。
林田アナの伴奏。
チャン、チャラッチャン♫
旅のお題は「なぜ浜松は楽器の町になった?」。

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いろいろな楽器で世界シェア1位を誇る浜松。
ヤマハ、河合楽器、ローランドといったところか。

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第153回 浜松

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浜松市の中心部にある神社。

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徳川家康を祀った東照宮。

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家康は29歳から17年間浜松で暮らしていた。

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秀吉と家康の間に立つと出世するらしい。

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もうええやろw

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家康が来たからこそ、ここは発展した。

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1570年、家康が小さな宿場町だったこの場所に城を築き、浜松と名付けました。

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すごく怪しいおじさん発見。

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静岡大学の小山真人先生でした。
先生は浜松出身。

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この高低差は何?

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活断層でないとすれば、河岸段丘。

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ということはかつて川が流れていた?

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タモリさんたちは今、三方原のヘリにいた。

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家康は天竜川が作った崖の上に城を建てていた。

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桶狭間の戦い:
1560年 織田信長が今川義元に勝利した合戦

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東から侵略を試みようとする武田信玄。

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家康は武田軍の動きを監視する必要があった。
故に浜松の河岸段丘の高台に城を築いた。

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夏休み明け第1弾は、京都御所。

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現在位置確認。
京都御所は京都駅のほぼ真北。

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今回のお題は、「天皇の住まいはなぜこの場所だった?」

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京都御所はなぜ平安京の北東の隅にある?

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案内人は京都町歩き団体主宰の以倉敬之さん。

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約500年間、73代もの天皇が暮らしてきた京都御所。
なぜこの場所にあるのでしょうか?

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第142回 京都御所

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タモリさんたちがまず向かったのは、かつての天皇の住まい、大内裏の跡。

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頭上からの不意打ちw

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なぜ一般人は芸能人に「頑張って」と声をかけるのか問題。

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狭い路地に入ってゆく。

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段差発見。

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これはあるお城の堀。

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聚楽第はこんなところにあった?

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約430年前、豊臣秀吉が大内裏の跡地に建てる。
敷地面積10万5000㎡の広大なお城。

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関西なので甲子園球場が面積の目安w

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聚楽第よりさらに大きい大内裏。

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大内裏は聚楽第の約16倍。
甲子園球場でいうと、48個分どすな。

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平安後期、白河法皇も「ここはちょっと広すぎる」とぼやいていた。

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今の家の住みたくなくなったらどうしますか?

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引っ越しを考える林田アナ。

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土地の部分売却で現金化するタモリ。
金持ちの発想w

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天皇は親戚筋の貴族の家を転々としていた。

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天皇は引っ越し魔だった。

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転がり込まれた方も嫌とは言えないし、丁重に扱わないといけないし、面倒だったろうなあ。

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それにしても天皇の転居先が左京に集中しているのはなぜ?

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洞窟の中で見た断層は、秩父盆地の南側の際のもの。

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東側の際にも断層があります。

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この2か所の断層が生み出した日本を盛り上げたものとは?

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タモリさんたちは東側の断層から3km離れた市街地にやってきました。

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ここを案内するのは、小鹿野高等学校の小幡喜一先生。

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秩父には34か所の札所があります。

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札所:心の安らぎを求めて巡礼するお寺やお堂
参拝のしるしに札を納める
四国は八十八か所が代表的

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江戸時代広く知れ渡っていた「日本百観音霊場」は、3つの巡礼コースからなります。

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清水寺を含む西国三十三か所と浅草寺を含む坂東三十三か所。

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そして、三つめは秩父三十四か所です。

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実はこの秩父の札所は断層と深い関係があります。

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秩父の札所19番、龍石寺にやってきました。

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岩が露頭している。

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江戸時代の記録では龍石寺は岩の上に直接建っていた。

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不自然に表れている岩は何なのか?

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外から見ると寺が岩の上に建っているのがわかる。

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ところどころチャートがある。

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この寺は盆地の東側の断層によって生まれたもの。

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今いる場所は断層から3km離れていますが、岩は断層の硬いチャートと小石が混ざっています。
なぜなのか?

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東の断層が上がった時にがけ崩れがあり、大量の土砂が3km離れたここまで流れてきた。

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1600万年前、秩父は海の底だった。

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南と東の断層が動く。

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その際、東の断層にがけ崩れが起きる。
粉々になったチャートは土砂を巻き込みながら3km先までたどり着く。

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海の堆積物が厚く積もり、その重みで時間をかけて硬い巨大な岩の塊になる。

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やがて土地が隆起して秩父は陸地になる。

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川が流れて浸食が始まる。

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堆積物は削られていくが、硬い岩の部分は残り、姿を現す。

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断層によってできた珍しい地形を昔の人は畏敬の念をもって接した。
そして、札所になった。

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秩父には断層など自然が生み出した不思議な地形がたくさんある。

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伊勢神宮内宮・宇治橋前からスタート。

タモリさんは10数年前にお参りに来たそうです。
近江アナは修学旅行で伊勢神宮に来たことがある。

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京都編でも修学旅行で来たと言っていた。
ブラタモリは近江アナの思い出巡りの旅?w

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本日のお題は「人はなぜ、伊勢を目指す?」

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伊勢神宮・内宮は太陽の神ともいわれている「天照大神 」が祀られています。
20年に一度、すべてを建て替える式年遷宮でも有名です。

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現在でも伊勢神宮参拝者は年間約800万人。
 
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お伊勢参りは江戸時代の庶民の憧れ。
6人に一人はお伊勢参りに来たのではないかと言われています。

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五十鈴川にかかる宇治橋を渡るタモリさん一行。
案内人は伊勢神宮の広報担当石垣さん。

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式年遷宮に伴い、20年に一度この橋も架け替えるそうです。
20年間で約1億人がこの橋を渡ります。
20cmの厚みのあるのこの橋は、架け替える時には12㎝になっているそうです。

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遠くに見える山までが境内。
だいたい世田谷区と同じぐらいの面積があるそうです。

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一行がやって来たのは境内を流れる五十鈴川のほとり。

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五十鈴川で手を清めます。

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皇学館大学の新入生たちと遭遇。
この中から神主さんになる人も(文学部だと2割近くが神社関係に就職)。

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タモリさんのお父さんは皇学館大学(旧神宮皇學館)が第一志望だったそうです。
でも、おじいさんに止められて断念。

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正殿の近くまでやってきました。

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矢印方向に下る傾斜があり、今いる参道から高い方に正殿、低い方に五十鈴川があります。

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正殿は河岸段丘 の上に建てられていました。

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古より川が氾濫し、低湿地が広がっていた伊勢。

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内宮の正殿は、水害に遭いにくい地盤がしっかりした河岸段丘の上が選ばれたようです。

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正殿にお参りするタモリさん一行。

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群馬県沼田市。
タモリさんは高校時代に地学の授業で沼田を知り、大学進学で上京してからこの街を訪れたそうです。
沼田は典型的な河岸段丘がある土地なのだそうです。

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線路の上の歩道橋から段丘崖を眺める。

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沼田城は河岸段丘の上に建っていました。
地形的に3つの河岸段丘に守られています。

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CGでお城を再現するとこんな感じ。

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タモリさんたちは沼田駅前から約70m以上の高さがある段丘崖を登り、河岸段丘の平らな土地(段丘面)に移動します。
段丘面には市街地が広がっています。

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一行はまず真田にゆかりのあるお寺、正覚寺(1612年創建)を訪れます。

古地図で見ると正覚寺も沼田城も
崖の縁にあることがわかります。

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正覚寺は真田信繁の義姉にあたる小松姫が眠るお寺。

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小松姫は本多忠勝の娘、後に徳川家康の養女になり、真田信幸の妻になります。

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正覚寺の庭の端に行くと、城も寺も崖っぷちにあることがよくわかります。

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沼田は戦国大名たちが狙っていた戦略上の要所。
 
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沼田は多くの街道が交差する交通の要衝だったのです。

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真田が城下町に作った防衛に関する工夫を見るために、市街地に移動します。

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古地図で城下町の町割りをみると、道が不自然に斜めに交わっています。

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沼田の城下町には防衛のためのお堀やカギ形の道もありますが、道を斜めにする利点は何だったのでしょうか。

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斜めの道を歩いていると、突如襲ってきた真田の軍勢。

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斜めの道で三角形のスペースを作ることで、隠れて待ち伏せする空間を確保していたのです。 

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この空間は武者隠しと呼ばれています。

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お店のおばあちゃんに真正面から褒められて思わず照れる桑子アナ。

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おばあちゃんによると、先代がこの武者隠しを遺しておいたのだそうです。

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