Halohalo online

ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:歴史



ロケ地:渋谷区東

後ろに見えるのが都営バス渋谷自動車営業所(渋谷車庫)。
以前坂道を巡ったときに貸し切ったB‐P494があそこにある。

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ゲストはビビる大木さん、能町みね子さん。

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渋谷は、古いマンホールやレアなマンホールがあるマンホールの聖地。

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能町「初めて興味のない企画で呼ばれました」w

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今回はマンホールの楽しみ方を徹底解説します。

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案内をするのはマンホーラー歴10年の竹内正則さん。

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まずは最新のものから。

都型標準マンホールふた(平成13年~) 
東京をイメージさせるイチョウ、サクラ、ユリカモメがデザインされています。

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ユリカモメは縁取りの波型のライン。

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T‐25⇒車両総重量25トンまで通行可

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63は1963年に管渠(給排水を目的として作られた水路)が設置されたということ。
2000年代になると、青色になっています。
 
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5Kは横軸、5Fは縦軸?

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東京都下水道局の管理図上で、5K、5Fのエリアにある47番目のマンホールであることを意味しています。

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ここから東京の歴代のマンホールを巡ります。

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新たな案内人として、マンホーラー歴20年の白浜公平さんが加わります。

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一世代前のマンホール。
都型標準マンホールふた(平成4年~)

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白石さんのiPadに入っている下水道台帳。
下水道台帳:東京都下水道局が管理する下水道管の埋設状況を記載した図面
インターネットに公開されているそうです。

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今見ているマンホールの情報。
マンホールの標高(地盤高)もわかります。

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東京市型マンホールふた(昭和44年~)

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円が二重になっていて、内側が8分割、外側が14分割されているのが特徴。

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中央は都の紋章を漢字の「下水」が取り囲んだデザイン。

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東京市⇒明治22年~昭和18年

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白浜さんの研究ではこの東京市型のデザインを採用したのは日本橋の設計をした技師の米元晋一氏が有力。

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東京府時代のマンホールふた(昭和6年~)
東京府⇒明治元年~昭和18年
東京都の紋章は昭和6年に決まったので、少なくとも昭和6年以降のマンホール。
しかも、渋谷町は昭和7年に東京市になったので、このマンホールは昭和6年~7年に設置されたもの。

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割と車が通る道です。

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東京の歴代マンホールふた

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「箸置きの世界」の案内人は2000個の箸置きを所有する箸置きコレクター、串岡慶子さん(70)。
今回詳しいプロフィール紹介は割愛されていましたが、串岡さんは現在滋賀女子短期大学で非常勤講師をされているようです。
食文化研究家としてNHKの朝の連ドラ「べっぴんさん」で近江料理の監修といった仕事もされているようです。 

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マツコさんは箸置きを持っているけど使わない。
一人暮らしなので使う機会がない。
串岡さんも一人暮らしだけど、箸置きを使っている。
マツコ「そこが人間の差」w

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自堕落な生活を食い止めるのが、「箸置き」。

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串岡さんの滋賀のご自宅で、箸置きのある生活を取材。

献立は「ブリと椎茸の蒸し物」、

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「タコと菜の花の酢の物」、「里芋の味噌田楽」。

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季節と料理に合った箸置きを考える。

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春を意識して梅の箸置きを使いました。
器が地味なので、ピンクの花がついたもの。

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串岡さんのきちんとした食事に圧倒されるマツコさん。

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串岡さんの錫の扇形箸置き。
鶴が二羽描いてあります。

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コマ型箸置き。

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箸置き絶対使わない人w

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ちょっと太めのADを箸置きダイエットに誘うw

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箸置きを使おうとすれば、食事もきちんとしたものになる。

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箸を置くので食事時間も長くなり、その間に満腹中枢が刺激される。

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たぶん串岡さんが見れば、大方の現代日本人の食事は恥ずかしい。 

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箸置きを前に置くと、自然と良い姿勢になる。

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箸置き効果に驚く。

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ひと儲けを画策するマツコw

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動物系箸置きの中でも、ネズミの箸置きは少ない。
なぜか?

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マツコ正解。

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自信を取り戻すマツコw

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私がこの世で初めてコンピューターというものを目にしたのは…そう大学3年生、1980年代初頭でした。

ゼミの研究資料の整理に、コンピュ-ターを使ったのです。
その当時大学にはコンピューターは理学部の研究室にしか置いてありませんでした。
文系の私らはパンチカードというものを持参して、理学部の研究室に行きました。
パンチカードを理学部の学生に渡して、「お願いします」で業務終了。

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パンチカード 未だに意味不明だが、入試の時に見たような…

薄暗い研究室の奥の方にバカでかい灰色の機械が安置されているのが見えたのですが、あれがコンピューターだったのだと思います。

その後、大学の事務局と新しい学部棟にテレビのようなものをちらほら見かけるようになりました。
今思えばあれがパーソナル・コンピューター(パソコン)だったのでしょう。

大学を卒業して広告会社に就職しましたが、私はコンピューターとは無縁の日々を送っていました。
ですがマーケティングという部署にパソコンはありました。
マーケティングの人たちがよく「フロッピーが…」と口にしていたのは覚えています。
彼らが手にしていた薄い黒い板がフロッピーというものだとはわかりましたが、何に使うのかは皆目わかりませんでした。

私が本格的にパソコンに出会ったのは齢30の時でした。
ちょうどバブルが始まりだした頃でしょうか。

私は縁あって、教育ソフトの制作会社に就職しました。
ここで初めてパソコンというものを触ったのです。
かの有名なpc98。
戦闘機で言えばゼロ戦みたいな名機です。

PC-9801RA2

まだ二十歳にもならないおねえちゃんに、パソコンの手ほどきをしてもらいました。
パソコンの起動とキーボードの操作ぐらいですが、やっと自分も現代人の仲間入りをしたような気分でした。

この会社は半年ほどで辞めてしまったので、結果的にはお給料もらってパソコン教室に行っておったようなことになりました。

自分のパソコンを初めて所有したのはそれからしばらくしてからのことです。
姉がオフィスで使っていたパソコンをお下がりで譲り受けたのです。
マッキントッシュ・ポータブル。

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当時は100万ぐらいしたらしい

上の写真は1989年に発売されたこいつ(手前)と2010年リリースのマックのノートブック(奥)です。
昔の人は大きかったんですね。

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画面は白黒で字と線しか見られなかったのですが、これで結婚後の新居を見つけました。
思い出深い一品です。

義理の妹夫婦がプログラマーをやっていたので、結婚祝いにまたまたお下がりのパソコンをもらいました。
デルというメーカーの一品です。
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1996~98年頃のDell製品

パソコンでゲームをするということを覚えたのはこの頃です。

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トゥームレイダーシリーズは結局Ⅲが頂点かな

初めて新品のパソコンを買ったのは、2003年の春だったと思います。
富士通のFMV deskpower (20万弱だったと思う)。

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テレビが見られるのがウリでしたが、結局これでテレビを見ることはほとんどありませんでした。
こいつは8年ほど使っていましたが、だんだん動作が重くなってくるのがしんどくなり、とうとう買い替えを決意しました。

そして、価格コムを見て驚いたのですが、高性能のノートパソコンが3万台で売っている時代になっていました。
FMVクンは廃棄するのも忍びなく(有料だし)、ネットで引き取り手を見つけました(あげくだ リサイクルユース情報)。

4トントラックで自宅に乗りつけたその人は千葉の農家の方で、電気自動車の制作もやっているという好奇心旺盛な人でした。 
ハードの中身を入れ替えて快適に動くようになりましたと、しばらくして報告を頂きました。

そして、現在私が使っているパソコンはこれです。
emachines

emachines E729Z
 
2011年購入で3万ちょっと。台湾のメーカーのものです。
価格が安い分、サポートが不十分という評価はありますが、今のところ問題はありません。

ただ、オンラインゲームなどをやるにはスペック不足で、もっとCPUが欲しいなどと、イッチョマエのことを考えています。

こうしてパソコンの歴史を振り返ってみると、価格と性能がすさまじい勢いで反比例していることが分かります。
パソコンのさらなる進化が楽しみですね。





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