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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:暗渠







美観地区から船に乗ってスタート。

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時代劇のセットのような景色。

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タモリさんも近江アナも初倉敷。
街のイメージは「これしかない」。
確かに水路の印象が強い倉敷。

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1970年代後半から1980年代にかけてアンノン族の聖地だった倉敷。

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今回の旅のお題は「なぜ美しい町並みが倉敷に?」
最初の案内人は倉敷市教育委員会の藤原憲芳さん。

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なまこ壁は瓦を並べて漆喰で固めた壁。
高価なため城や豪商の建物に多い。

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江戸~戦後まで様々な年代の建物が倉敷には残っています。

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江戸時代の蔵もたくさん残っています。

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いきなり核心を突く。

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空襲を免れたから美しい町並みが残った。
今回のお題の答えの一つでした。

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案内人泣かせの博識ぶり。

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「倉敷」を説明するためにわざわざ広辞苑を持ってきた藤原さんw

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倉敷
①(倉敷地の略)各地の荘園から年貢などを輸送する際に一時保管する倉庫が置かれた所。

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倉敷は倉敷地だった。

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物資がたくさん集まる場所だったから、たくさんの蔵がある。

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この倉敷川も海につながる運河でした。

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明治後期の倉敷。
運河に物資輸送の船が浮いています。

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江戸時代から運河で江戸や大阪と繋がって栄えた倉敷には、多くの豪商が生まれました。
そして豪商たちは商売以外のやり方で富を増やしていました。

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タモリさんたちは、商売以外のやり方を知るために豪商の家に向かいます。

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暗渠発見。

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この暗渠をたどってゆきます。

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橋の跡

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こんな感じで水路があった。

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タモリさんたちは清水寺を出て、参道を下ります。

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参道は二つの川が削ってできた尾根の上に作られています。

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 有名な三年坂(産寧坂)は北側の谷底に下る坂。

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 三年坂を下ると、橋の痕跡がありました。

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土産物屋のおばちゃんが轟川だと教えてくれました。

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江戸時代の絵図の三年坂には轟川と橋が描かれていました。

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轟川は現在ほぼ暗渠になっていますが、八坂の塔までたどることができます。

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橋の痕跡に戻って、暗渠巡りスタート。

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マンホールから水が流れる音が聞こえる。

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途中で犬を散歩中のおじさんが暗渠のコースを全部教えてくれるw

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あのおじさんは川の妖精だった?w

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川の妖精の言ったとおりに歩くとゴールの八坂の塔に着きました。 

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 近江アナ、暗渠巡りの感想を聞かれる。

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ダウトw

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タモリさんたちは鴨川にかかる松原橋にやってきました。


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ここは清水寺の参道の出発点になります。

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遠くに清水寺が見えます。

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橋から清水寺までの道をかつては「清水坂」と呼んでいました。
坂は斜面という意味だけではなく、境目の「さか」でもある?

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空也上人で有名な六波羅蜜寺

近江「鳥が出てきてる」

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以倉さんにソフトにツッコまれるw

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「幽霊子育て飴」の看板。
このあたりにはそこかしかに「幽霊」の文字が見られます。

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鴨川は三途の川。
ここは生の世界と死の世界の境目と考えられていた。

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タモリさんたちはさらに明確なこの世とあの世の境目を見に行きます。
 
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六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)

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閻魔大王が鎮座しています。

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不老泉からたどってきた古い道の先の暗渠はどこにあるのか?

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タモリさんたちは暗渠を探しに行きます。

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右と左、どちらが暗渠か?
左の方が低いから水が流れそうですが、右の道の曲がり方も気になります。

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タモリさんは右の道を選びましたが、やはり左の方が低くなっています。

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タモリさんは地図上で左右の道の間に建物の並び方が不自然なところを見つけました。

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その場所に行ってみます。

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空き地のような場所に暗渠を発見。

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タモリさんの予想通り、建物の間が流川の暗渠でした。

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左の道(青)に流川の水面が見られる場所がまだ残っていました。

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 別府の砂蒸し風呂。

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続いてタモリさんたちがやってきたのは流川通りの突き当り。
ここで温泉町・別府の新たな戦略を探ります。

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港までまっすぐ突き抜ける流川通り。

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そして、流川通りの突き当りには遊園地

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市街地の整備が完了した昭和の初め、様々な観光娯楽施設が造られました。

九州の宝塚と呼ばれた華やかな少女歌劇団。

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高さ24m、当時東洋一の大きさを誇った別府大仏。

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昭和4年、子供も楽しめる施設として作られた別府遊園地。

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しかし、この山は遊園地を造るために開発されたものではありません。

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遊園地ができる前にあったものとは何か?
遊園地の裏山を登ると温泉がありましたが、これ以外の施設がかつてあったそうです。

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湯気が出ている穴。

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古い地図を見ると、ここがかつて金山だったことがわかりました。

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別府金山:
明治36年~大正5年
金や銀を産出 
最盛期200人以上働いていた

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しかし、ある理由で金山を閉山しなければならなくなりました。
その理由を知るためにタモリさんたちは坑道に向かいます。

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坑道の入り口から湯気が出ています。

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中に入ると、熱い。
45℃ありました。

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閉山の理由を身をもって体験しました。
現在ここはサウナとして使われているそうです。

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海地獄からスタート。

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タモリさんは60数年ぶりの再訪。
思い出はおばあさんに「言うこと聞かないと地獄にほうりこむぞ」と脅かされたことだけw 

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別府の地獄とは、高温の蒸気や温泉が自然に湧き出す場所のこと。
海地獄は含まれる鉱物に光が反射して青く見える。

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海地獄の温度は約98℃。

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旅のお題は「巨大温泉都市・別府はどうできた?」。
案内人は前回に引き続き別府市教育委員会の永野康洋さんです。

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江戸時代、温泉番付では前頭6枚目だった別府温泉。
なぜその別府が横綱級の巨大温泉都市に発展したのか、その秘密を探っていきます。

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別府の三毛猫。

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タモリさんたちは別府村と呼ばれていた海岸近くの通りにやってきました。

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何かを発見した二人。

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極めて不自然な場所でコーヒーを飲む女性w

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熱海の回でお世話になった先生でした。

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京都府立大学の松田法子先生。
先生は学生時代から温泉町別府の成り立ちを研究しているそうです。

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路傍の石垣に目をつけるタモリさん。
 
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低い石垣は港まで続いています。

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赤い線が石垣のあるところ。

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石垣は、港に作られた防波堤の痕跡でした。

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明治4年、別府村に大きな船が停泊できる近代的な港が完成。
遠くからも温泉を楽しむために客が来るようになり、海岸沿いには旅館や共同温泉が作られました。 

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さらに2年後、大阪との定期航路ができました。
関西と直接つながった別府村は急速に発展しました。

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当時港周辺の砂浜は、砂蒸し風呂になっていました。

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上の写真が撮られた場所と思しきところで、追体験してみます。

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近江アナと松田先生のポーズが、子供と大人w

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当時の写真を見ると、女性はおっぱい丸出し。

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昔はおっぱいの価値が低かった?

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