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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:新田開発







なぜ倉敷の商人たちは自由に新田開発ができたのか?
その理由を探るために、タモリさんたちは鶴形山から南に200mほどの通りにやってきました。

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倉敷紡績 旧本社工場:明治22年創業、倉敷初の紡績工場

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江戸時代、この敷地には別の施設があった。

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それがあったことにより、商人たちは自由に土地開発ができた。

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この道は、もとは道ではなかった。

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江戸時代の絵図を見ると、堀だったことが分かります。

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敷地内に入ります。

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堀の一部が残っていました。

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代官所内濠遺構」のプレート発見。

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時代劇ぐらいの知識w

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代官所は幕府の役人がいたところ。
実は倉敷は天領。
天領:幕府の直轄地 役人が代官所で支配していた

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天領は城下町ほど規模が大きくなく武士も少なかった。
なので、商人の力を借りないと支配できなかった。
代官所は商人の助けを得るため、自由に商業活動をすることを許した。

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倉敷は天領だったため、商人たちは新田開発ができたのです。

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ここで本日のお題をもう一度。
明治の紡績工場が”美しい町並み”と関係がある?

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3人目の案内人は元紡績工場の工場長だった守本卓郎さん。

紡績とはなに?と聞かれて「繊維産業」と答える近江アナ。
優しい先生なら3点配点で1点の答えw

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紡績の重要な原料、綿花。

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塩が残る干拓地なので米作りには適さない、しかし綿花は塩に強い。
綿花:土の中の塩分を取り込む性質があり、干拓地で最初に植えられることが多い。

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こうして綿花が豊富に手に入る倉敷に紡績工場ができました。

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明治22年、128年前に建てられた紡績工場跡

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何でも知っているタモリさん。

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イギリス積み:レンガの長い面と短い面を交互に並べる積み方

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倉敷の紡績工場は、当時最先端だったイギリスの技術をどんどん導入しました。

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明かり取りの窓もイギリス式。

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ギザギザになっているので「のこぎり屋根」と言います。
これもイギリスの様式。

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美観地区から船に乗ってスタート。

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時代劇のセットのような景色。

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タモリさんも近江アナも初倉敷。
街のイメージは「これしかない」。
確かに水路の印象が強い倉敷。

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1970年代後半から1980年代にかけてアンノン族の聖地だった倉敷。

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今回の旅のお題は「なぜ美しい町並みが倉敷に?」
最初の案内人は倉敷市教育委員会の藤原憲芳さん。

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なまこ壁は瓦を並べて漆喰で固めた壁。
高価なため城や豪商の建物に多い。

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江戸~戦後まで様々な年代の建物が倉敷には残っています。

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江戸時代の蔵もたくさん残っています。

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いきなり核心を突く。

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空襲を免れたから美しい町並みが残った。
今回のお題の答えの一つでした。

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案内人泣かせの博識ぶり。

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「倉敷」を説明するためにわざわざ広辞苑を持ってきた藤原さんw

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倉敷
①(倉敷地の略)各地の荘園から年貢などを輸送する際に一時保管する倉庫が置かれた所。

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倉敷は倉敷地だった。

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物資がたくさん集まる場所だったから、たくさんの蔵がある。

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この倉敷川も海につながる運河でした。

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明治後期の倉敷。
運河に物資輸送の船が浮いています。

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江戸時代から運河で江戸や大阪と繋がって栄えた倉敷には、多くの豪商が生まれました。
そして豪商たちは商売以外のやり方で富を増やしていました。

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タモリさんたちは、商売以外のやり方を知るために豪商の家に向かいます。

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暗渠発見。

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この暗渠をたどってゆきます。

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橋の跡

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こんな感じで水路があった。

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