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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:完全版

 お土居

タモリさん一行がやってきたのは、新京極から北西6キロ離れた京都の端。
ここにもいにしえの巨大プロジェクトの痕跡が残っているそうです。

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案内役は京都高低差崖会の梅林さん。
タモリさんと同じ高低差マニアのようです。

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さっそく”河岸段丘(かがんだんきゅう)”というマニア・ワードで盛り上がる二人。

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 少し歩くと、こんもりとした小山が…。
これは、”御土居(おどい)”というものだそうです。

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”御土居”とは、今から約400年前、豊臣秀吉が作らせた巨大な土の壁。

特別にフェンスの鍵を開けてもらい、御土居の上に登ります。
左手に見える山が比叡山。


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昔はこの御土居が京の街をぐるりと囲んでいたそうです。
全長23キロの壁をわずか4か月で完成させたそうです。

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この御土居を境にして、内側を洛中、外側を洛外と呼んでいました。

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御土居の上を歩きながら盛り上がるマニア二人。
ついていけない首藤アナ。

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当時御土居には竹が植えられており、江戸時代まで御土居の竹はブランド竹として珍重されていたそうです。

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応仁の乱(1407~1477)により、京の街は侵入者たちによって荒廃してしまいました。 
天下統一をはたした秀吉は、京を首都にするにあたり、細かく分かれていた京の街を一つにまとめ、(侵入者の襲撃を防ぐため)それをぐるりと囲む城壁(=御土居)を作ったのだそうです。

御土居の先にある住宅街を歩く一行。
右側の方が高くなっています。

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梅林さんによると、御土居の土台部分の上に家が建っているらしい。

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 地図を見ると、”土居町”は細長い。

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元御土居の上に住んでいる方にインタビュー。

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 さらに歩くと、鷹峯街道に出ました。
タモリさんはこの街道が好きで学生時代からよく来ていたそうです。

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名物御土居餅。
きな粉を御土居の赤土に見立てている。

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御土居餅を食べる一行。
”大福の上にきな粉をかけたモノ”だそうです。

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鷹峯街道を行くと、お醤油屋さんが…。
タモリさんの学生時代にもあったそうです。

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さらっと創業209年。
中に入って見学させてもらいます。

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濃口醬油にもう一度麹を入れる”再仕込み”醬油を製造中。
ちょっと高級醬油だそうです。

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さらに鷹峯街道。
このへんはタモリさんと同じ、森田姓が多いそうです。

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また新しい御土居に行きます。

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この御土居は、北西の隅。

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ここの御土居は、川が削ってできた”河岸段丘”を利用して作られたものだそうです。
(下図の赤い部分)

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梅林さんによると、「自然と御土居のコラボ」なのだそうです。

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タモリさんも御土居を実際に歩いて、御土居構築が大プロジェクトであることを実感できたようです。 

 






御土居堀ものがたり
中村 武生
京都新聞出版センター
2005-10








 新京極

修学旅行生がよく来る繁華街”新京極”にやって来ました。

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新京極の秘密を案内するのは、学芸員の船越幹央さん。

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新京極が作られたのは明治5年。

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タモリさんと首藤アナは明治時代に新京極ができた痕跡を探します。
 
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結局二人では見つけられず、学芸員の船越さんが解説。

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江戸時代の地図で照らし合わせると、新京極通りはお寺や神社の境内を貫くようにして通されたことがわかります。

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ゆえに、本堂と通りが極端に近い。

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 新京極通りと蛸薬師

かつての参道は路地として残っています。
 
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なぜ境内を貫くようにしてしい新京極は作られたのか。
その理由を錦天満宮の宮司、大和政夫さんに尋ねます。

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宮司さんによると、もともと境内には縁日の市が立つスペースがあったそうです。
そのスペースを通りにすることによって、振興の勢いをつけるのが新京極の狙いだったそうです。
つまり、区画整理して通りを作ることによって、繁華街化し同時に人の流れも効率的にしたわけです。

こうして、新京極は明治30年代には日本3大盛り場(他2つは、東京浅草、大阪千日前)の一つとなりました。

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鳥居の両端が建物を突き抜けているように見えますが…。
 
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真相追究のためにお店に入ります。
ビジュアル系の雑貨屋さん?

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見事に鳥居が突き抜けていましたw

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新京極プロジェクトは鳥居の先端を計算しないで 区画整理をしてしまったそうです。

路地の石畳。

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実は廃線になった市電の敷石を使っているそうです。

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京都はかつて市電の敷石だった御影石を路地や参道でリサイクルしているそうです。
 
新京極周辺は時代時代の痕跡が混ざり合う迷宮スポット。

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路地を進んでゆくと、靴屋さんの中を通ります。

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路地裏に小さな神社を発見。

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新京極ができた明治時代、この界隈に住んでいた狸を祀った神社だそうです。

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元映画館。
学芸員の船越さんが学生時代には、ピンク映画専門館だったそうです。

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今は若者向けの古着ショップ。
小さなスクリーンが映画館だった痕跡?

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映写室も名残りをとどめています。

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京都 (楽楽)
ジェイティビィパブリッシング
2014-04-10




 

ブラタモリが3年ぶりに再開しました。
今回の京都編・完全版は1月に放送した京都編に未公開シーンを加えたものです。

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勤務体制が変わった(いいとも終了)ので地方にも行けるようになりました。 

 琵琶湖疏水

まず向かったのは南禅寺。
湯豆腐で有名なお寺。

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ここには不思議な建造物、「水路閣」があります。

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水路閣を目指して階段を上る。
パートナーは首藤奈智子アナ。

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上にはやや挙動不審の女性が…。
この水路に詳しい学芸員の寺嶋一根さん。

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寺嶋さんがこの水路ー琵琶湖疏水ーができた経緯を説明してくれました。

明治維新により京の帝が東京に遷都。
これにより、京都の人口は三分の二に減ってしまったそうです。
京都を何とか盛り上げなくてはいけないと思案した末、この巨大プロジェクトー琵琶湖疏水ーが立ちあがりました。
全長約20キロの琵琶湖疏水は明治18年に着工し、完成まで5年かかりました。
費用は当時の京都府年間予算の2倍かかったそうです。

最大の目的は水運。
東日本・北陸からの生活必需品をスムーズに運搬できるようになり、京都の人口は見事に回復したそうです。

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また、琵琶湖疏水によって、日本初の水力発電所もできました。
電力のおかげで電車が走り、工場が稼働し、京都は一気に近代都市に生まれ変わりました。

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なぜかレールの上に舟が…。

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京都ー琵琶湖間の高低差分の急こう配。
ここにはレール敷いて、傾斜鉄道(インクライン)が舟を運んでいました。

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三十石船(4.5t)を運ぶことができたそうです。

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レールに沿って歩く一行。

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レールを枕木に固定する犬釘。
確かに犬の横顔です。

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道行く人たちとおしゃべりしつつ歩きます。

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レールには”イギリス・バーロー社1887年製”と刻印されています。

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最後にCGでインクラインが舟を運びます。 
 
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