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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:博多

 我が街にも客船を!激アツ誘致合戦

豪華客船がもたらす効果① 乗客がお土産・食事などでお金を使ってくれる

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豪華客船がもたらす効果② 受け入れる街を活性化する

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マツコが好きな日本地図。

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「月曜から夜ふかし」でやってましたね。

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滋賀県の地図なのに琵琶湖が描いてなかった。

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琵琶湖がないと何の特徴もない県w

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寄港回数が多いトップ20。
トップ3は横浜、長崎、那覇とマツコは予想。

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意外にも博多が1位。
近年は中国、台湾発着のクルーズが多く、西部、南部の港に寄港することが多い。

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日本海側では金沢港が人気がある。

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アロハシャツ姿で金沢の街をぶらつく寿美子。

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金沢は港と街が近く、グルメ、観光名所も事欠かない。

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世界の船乗りの人気№1港は、静岡の清水港。

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富士山を見ながら入港。

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これからは日本中の港が豪華客船の寄港地になる。

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寿美子の時代がやってくるw

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 おひとり様で行く!南国カリブ海クルーズ

一人旅しかしない独り身のオカマ。

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おひとり様クルーズは朗報。

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ひとり専用客室。

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クイーン・エリザベスのシングル客室。

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ノルウェージャンエピックのシングル客室。

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シングル客専用ラウンジ。

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ラウンジには掲示板がある。

「今夜の11時ディスコに行きます トム」

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「私も行きます ジュリー」

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「私も行きます 寿美子」

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カオスなメンツw

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今回のブラタモリは西鉄薬院駅前からスタート。
タモリさんは子供の頃この界隈に住んでいたことがあるそうです。

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その当時はまだ高架はなく、私鉄と市内電車(路面電車)が直交していたそうです。

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交差地点を電車が通過するときの音が、タモリさんには深く印象に残っているようです。
この場所が、タモリさんが鉄道ファンになった原点。

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ここで、今日のお題。
”福岡発展のカギは鉄道にあり!?”

1889年(明治22年)当時、九州の都市別人口では、福岡市は鹿児島市(57822人)、長崎市(54502人)に次ぐ第3位(50847人)。
現在福岡市は150万超の人口を抱える九州最大の都市です。
この発展の秘密を鉄道を手掛かりに探っていきます。

一行は薬院駅から隣の駅の西鉄福岡(天神)駅に移動します。
40年ぶりに西鉄に乗るタモリさんはノリノリで指さし確認w

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タモリさん一行がやってきたのは天神地区。
大型商業施設やオフィスビルが集積する九州最大規模の繁華街です。

昭和45年当時の天神地区。
市内電車が走っています。

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天神が発展したのは市内電車が交差して、交通のハブになったからだそうです。

江戸時代は商人の町博多と武士の町である天神は分離した存在でしたが、明治43年、電力王と呼ばれた松永安左エ門が中心となり商人の町と武士の町を繋ぐ路面電車を開業します。

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さらに翌年、博多一の商人、渡邉與八郎が天神で交差する形でもう一つの路線を作りました。

二つの路面電車が交差することになった天神は、交通の要衝となり、 発展してゆきます。

福岡市の路面電車は昭和54年にすべて廃線になりましたが、西鉄バスが用意したブラタモリ号でその痕跡が残る場所を見に行きます。

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ブラタモリ in 福岡   天神⇒鉄路の痕跡

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歩道で待ち受けていたカメラマンがとらえた貴重な2ショット。

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天神から東に3キロ、馬出(まいだし)地区でバスを降ります。
昔の路面電車専用軌道に電停(路面電車の停留所)が残っていました。
今はそのままバス停として使っているそうです。

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勝ち運の神様がいることで有名な筥崎宮(はこざきぐう)の前にも路面電車が走っていました。

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右側の白い鉄塔は、路面電車のレールでした。

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大正13年、福岡の発展を加速させる新たな鉄道が誕生します。
天神を起点にして、のちに大牟田まで繋がる大牟田線です。
(現在は天神大牟田線として1日約25万人が利用しています)

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これによって天神にはデパートなどができはじめ、昭和15年には福岡市の人口は30万6763人にまで増加します。

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大牟田線の旧車両313形(昭和27年製)。
昭和50年まで旧車両が走っていたそうです。

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この車両は間もなく解体されますが、運転席も案内してもらいました。

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運転席を後ろから覗いていた昔を懐かしむタモリさん。

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コンプレッサーの音のモノマネは鉄道ファンの定番(?)。

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タモリさんが大牟田線を利用していた昭和30年代、大牟田線は年間乗客数8000万人、路面電車は1億人を突破していました。

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今回はタモリさんの地元、博多でブラタモリ。

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最初のお題は博多と福岡の違いは何?

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桑子「博多は博多というエリア、福岡は福岡県」
私もそう答えると思います。 

でもこれはちょっと違うらしい。
関ケ原の合戦後、この地を与えられた黒田氏が城を築き、出身地である岡山の地名、福岡の名をつけたところから城の周辺が福岡になったそうです。
つまり、博多と福岡はもともとは別のエリア。
那珂川を境にして、西側が武士が住む城下町の福岡、東側が伝統的な町人の町博多だったのだそうです。

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博多と福岡の違いが分かったところで今回のメインテーマです。
「博多誕生のカギは”高低差”にあり」

博多には何度か行ったことがありますが、そんなに高低差はなかったように記憶しています。
どういうことなのでしょう?

まずは博多の町割りについてお勉強。
戦国時代に戦で焼け野原になった博多を天正15(1587)年に石田三成や黒田官兵衛が中心になって区画整理をしました。
これが太閤町割と呼ばれるものです。

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400年以上たった現代でも、太閤町割の多くは道筋として残っているのだそうです。

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タモリさん一行は太閤町割の基準となった大博通りにやってきました。
大博通りは博多湾と博多駅を貫く大通りですが、なぜここが太閤町割りの基準になったのか?

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弥生時代以前、博多一帯は二つの砂丘でした。
時の流れとともに砂丘が成長し、二つの砂丘がつながります。

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砂丘を貫くわずかな高まりが、太閤町割の基準(現在の大博通り)となったのだそうです。

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一行が大博通りを歩きながらわずかな高低差を観察するうちに、タモリさんに突然古い記憶がよみがえります。
タモリさんが4、5歳ごろ、通り沿いに池があったことを思い出したのです。
この謎の記憶は、後のある場所への訪問で見事に解明されます。

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福岡市博物館の本田さんによると、博多は弥生時代から現代にいたるまで積もりに積もって形成された町なのだそうです。
つまり、(博多は)どこでも掘れば何かが出てくる。
という事で、昭和52年(1977)から博多の発掘調査が始まりました。

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たとえば、下の写真のビルのあたりは”博多遺跡第40次調査”

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ちょっと名称が長いので、略してHKT40w
あのアイドルグループより先に使っていたそうです。

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次に一行が訪れたのは、平安時代に貿易港博多が生まれた痕跡が見られる場所。
博多祇園山笠で有名な櫛田神社です。
 
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この神社の裏手にあたる南神門の段差が、その痕跡です。
 
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古代から中世にかけて、この辺りは砂丘のへりで、下は海につながる川だったのだそうです。

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船乗りたちは航海の無事を祈願するため大きな船から小舟に乗り込み、接岸して櫛田宮に入っていったのだそうです。 

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段差の入り口にある焼き餅は名物。
タモリさんは何度も食べたそうです。

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