遅まきながら、一頃ちょっと話題になった「桐島、部活やめるってよ」をユーチューブで見ました。
私が高校生だったのはもうウン十年前。
だからなのか、正直この映画の世界に入りこみきれませんでした。
そもそも桐島って何者だ?
最後までキーパーソンが登場しないスタイルは有名な戯曲「ゴドーを待ちながら」を思い出させます(見たことはないけどね)。
登場人物たちは見えない桐島クンに右往左往しています。
桐島クンは人気者どころかカリスマさえ通りこして、神的存在とも言えるのかもしれません。
人は何かに依存しないと生きていけないか弱い動物。
不安定な青春期にはいっそうそういう絶対的存在が必要なのかもしれません。
そういう理屈はわかるのですが、なんかピンと来ないのです。
まあ、このへんは感受性とか好みの問題かもしれませんね。
それから、高校のクラスを支配しているヒエラルキー(階層構造)のようなもの。
桐島クンを頂点として、バスケをしながら桐島クンを待つ東出昌大くん(役名忘れた)ら男子数名と桐島クンのキレイな彼女とそのお友達数名。彼ら彼女らがクラスの上位層とすれば、下層階級は神木隆之介くんをはじめとする映画部の面々ということになります。
私は地味な都立高校の出身ですが、あまりそういう学校内ヒエラルキーを意識したことはありませんでした。
運動部も文化部も帰宅部もいたし、クラス内に仲良しグループもいくつかありましたが、それぞれどちらが上とか下とかいう区別は感じなかったなあ…。
そもそも高校進学の段階で偏差値で選別されていたし…。
偏差値といえば、私は運動部だったんですが、超有名な進学校A学園と試合して負けたことがあります。
この時は監督が激怒しました。
「お前ら、偏差値で負けているのに、スポーツでも負けてどうする!全員坊主だ!!」
この理不尽な命令に、我々もなんとなく納得して翌週みんな頭を丸めてきました。
当時の私達を支配していたのは”偏差値”だったのかもしれません。
偏差値が神だったから、桐島クンはいなかったのかもしれません。
ああいった学校内ヒエラルキーはアメリカ映画ではしばしば見かけますね。
フットボール部やバスケットボール部のスター、そのガールフレンドたちや取り巻きが頂点にいて、運動も勉強もいまいちのイケテナイ子たちが、上位層にバカにされ、虐げられるというパターン。
まあ、異性にもてて明るい青春を謳歌できるグループと容姿も性格もパッとしなくてどんよりとした青春を過ごすグループがあることは、洋の東西を問わず同じなのかもしれません。
思い起こせば高校生当時の私も青春の勝ち組に入りたくて、この映画の登場人物たちのようにどこか空虚な恋愛をしていたような気がします。
また、この映画では下位層の鬱屈が上位層をゾンビたちに襲わせるという形(妄想?)で爆発しましたが、私はこのシーンを見た時にあの米国コロンバイン高校の銃乱射事件を思い出し、現実は虚構をはるかに上回っていると感じ、同時に日本はアメリカに比べればずっとマイルドで繊細で平和なのかもしれないと思いました。
現代社会を構成しているヒエラルキーは金を神とする富裕層と貧困層。
そして横のつながりを支配しているのはスマホ神。
あぁ、なんだかなぁ~…。
私がこの映画を見て一番共感できたのは、ブラスバンド部の女の子が屋上からスナイパーのように東出くんを見ているシーンです。
思いを伝えるすべも勇気もなく、ただ遠くから見つめるだけの初々しい恋。
もうすっかり忘れかけていた甘くて切ない感情を少しだけ思い出しました。