私はながらく自転車を買ってもらえませんでした。

幼稚園の頃から運動会などでかけっこをすると、いつもぶっちぎりのビリでした。
母親はそのドン臭さを危ぶみ、自転車に乗ることを私に許さなかったのです。

当時の子供たちは新たな遊び場を求め、公園から公園へハシゴをしていたのですが、私は走って自転車ガキ軍団のあとを必死に追いかけるしかありませんでした。

友達と遊びたい一心で毎日のように走るうちに、自然に私の足腰は鍛えられました。
そして忘れもしない小3の春、体力測定で50メートル走がありました。
自分でも驚いたのですが、私はクラスで一二を争う俊足になっていました。

晴れて自転車を買い与えられ、私は友達とあちこちに行きました。
ある時、近所のK君のお兄さんが私たちをタコの滑り台のある公園まで連れ行ってくれました。
初めて目にしたタコの形の滑り台…。
実はその公園は実家から歩いても10分弱の距離なのですが、当時の私たちにしてみればタコの滑り台は世界遺産マチュピチュを発見したぐらいの感動と驚きでした。

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これが現物だ 今も健在!

中学生になり、当時はやっていたセミドロップで派手な後部ウインカーのついた自転車を買ってもらいましたが、鍵をかけずに玄関先に置いておいたら盗まれてしまいました。

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70年代に爆発的大ブーム

高校時代は自転車通学をしていました。
当時最先端のディスクブレーキが自慢の自転車でしたが、メンテナンスをしなかったせいかブレーキの利きはイマイチでした。

2年生の定期試験開始の当日の朝、学校前の坂道で同じ高校の女の子を跳ね飛ばしたことがあります。
試験前の睡眠不足でお互いぼんやりしていたのだと思います。
ほぼノーブレーキで女の子に突っ込み、彼女は信号待ちしていたタクシーの下に滑り込んでしまいました。
私はすぐに彼女に駆け寄ってタクシーの下から彼女を引っ張り出したのですが、そのコは「大丈夫です」と言い逃げるようにしてその場を去っていきました。

学園物のラブコメだと二人が出合い頭にぶつかってから恋が始まったりするわけですが、リアル世界のファースト・コンタクトはロマンスを始めるにはちょっと激しすぎました。

大人になってからも、自転車は私の良き相棒です。

若い頃は自動車のルーフに自転車を載せて友達と田舎に出かけました。
湖で釣りをして、飽きたら湖岸をサイクリング。
独身の休日はそんな過ごし方でした。

1度だけですが、ショート・トライアスロンに出場したこともあります。
その時は自転車で往復30キロの防潮堤を走ったのですが、青海原と岩に白く砕け散る波を眺めながら走れる素晴らしいコースでした。
静岡県の沼津で開催された大会でしたが、残念ながら今はありません。

つい数年前ですが、伊豆大島に旅行に行きました。

三原山を下るマウンテンバイクのツアーがあったので、それに友人と参加しました。
ちなみにメンバーはガイドの兄ちゃんと私たちの3人だけでした。

三原山は1986年にも噴火した活火山なので山頂近くの景色は別の惑星のような趣があって面白かったのですが、
このコースは想像以上の難所でした。

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「バイクジャーナル 伊豆大島」 より抜粋

あまりにも急斜面の下りにさしかかり、このままでは転倒する恐れがあると思った私は自転車からスッと飛び降りました。

その判断は正しかったと思うのですが、そこまでに体力を消耗していたことと、自分が思っているほどもう若くはないという事実は想定外でした。

急斜面に降り立った私の足腰はその場に踏みとどまることができず、ダダッと斜面を下りだしたのです。
こうなるともう止まりません。
どんどん加速を増しながら、私は意志に反して下り斜面を猛ダッシュし始めました。

富士山ではこうやって死んでしまう人がたまにいるという話が、走る頭の中をかすめました。

制御不能になってゴツゴツした岩が所々にあるこの硬い斜面で転倒したら、ほんとうにたいへんなことになる。
私はほんの数秒の間にソフト・ランディングを決意しました。

少し枯草が生えている道脇を見つけ、そこにめがけて自分で飛び込んだのです。
まさに胴体着陸です。

ドウンッという鈍い音とともに、私の左胸に激痛が走りました。
「ウッ…ウ、ウー」
脇をしたたか打ちつけたので、息ができません。

友人とガイドの兄ちゃんは、なすすべもなく地面で悶絶する私を見下ろすばかりでした。

左の外脛は全面擦り傷、左側胸部打撲。
救急車を呼んでもらいたいところでしたが、山の中ではかなうはずもありません。
足から血を流しながら自転車で山を下り、さらに宿のある地点まで島を半周しました。

ある意味、思い出深い旅行になりました(笑)。