次にタモリさんたちが向かったのは、城の南側。
実はここにも彦根が”イイね”となった驚くべき仕掛けが隠されています。

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その秘密は城の南側を流れる芹川を見ればわかります。

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真っすぐに流れる芹川。

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航空写真で見ても琵琶湖まで直線的に流れている。

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芹川は人工的に流路を変えた川。

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天保7年の絵図を見れば、元の流路が推測できる。

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不自然に曲がりくねった町割りは、川を埋め立てた痕跡。

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城の南側はもともと川がいくつも流れる湿地帯だった。

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これを1本にまとめたのが芹川。

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川を付けかえれば、水浸しでなくなり、新しい土地を得られる。

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家康はこの土地をある特別な目的に使おうとしていた。

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その目的を知るため、次の場所に移動します。

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当時のままの細い道

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江戸時代の建物。

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この家は足軽の屋敷。
家康は川の付けかえでできた土地に足軽たちを住まわせていた。
足軽:鉄砲などで戦う下級武士

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足軽は集合住宅である足軽長屋に住むのが普通。

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彦根の足軽は戸建てに住む特別待遇。

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売り物件の足軽屋敷。

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足軽屋敷に潜入。

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彦根の足軽屋敷:
広さ50~70坪
門構えのある庭付き一戸建て住宅

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なぜ彦根の足軽屋敷はこんなに広いのか?

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江戸時代の初め、彦根藩は特別な任務を与えられていた。

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それは京都の天皇の警護。

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彦根から京都まで、陸路で1日半。
琵琶湖から船で行けば6時間。

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いざという時のために常に軍勢を維持しなくてはいけない。
実戦で重要なのは鉄砲隊(足軽)。

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ゆえに、彦根の足軽は優遇された。

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しかし、戦乱の世から平和な時代が続き、足軽が活躍する場は失われました。

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平和な時代に足軽たちは何をしていたのでしょう。

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道が若干ずれている交差点

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そして、のぞき窓。

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家の中から窓をのぞくと、道の向こうまでよく見える。

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足軽は地域のお巡りさんのような役割をしていた。

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道がずれていることによって、見通しが良くなっている。

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24時間体制で見張っていた。

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足軽はいろいろな役所の下級官僚として働いていた。

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足軽はスーパー公務員だった。

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今でいえば、税務署に勤めながら自衛隊にも所属しているようなもの。

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家康がまさかの備えのために作った足軽の町は、平和な時代にもイイ場所だった。

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続いてタモリさんたちがやって来たのは、足軽の町の東側の地域
ここでは平和な時代に誕生した伝統産業を見ることができます。

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この地域は仏壇店が密集している。

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鶴瓶師匠の「家族に乾杯」のポスター。

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鶴瓶をディスるw

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タモリの鶴瓶のものまね。
結構似てるw

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彦根の仏壇

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ビッグ&豪華絢爛。

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仏壇の前は違うものを作っていた。

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それは、かぶと。

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”井伊の赤備え”として有名だった武具作りの技を仏壇作りに生かしたと伝わる。

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やっぱり来ていた鶴瓶師匠w

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武具作りの技術と仏壇作りの技術は共通する点が多くある。

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作る工程や職人が武具と似ていたことが、平和な時代を生き延びることにつながった。

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最後に金箔職人(箔押師)の仕事場にお邪魔します。

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タモリさんが箔押しに挑戦。

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これは難しい。

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金箔の厚さはわずか10000分の1mm。
ぴったりと貼りつけるのは職人の技。

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戦乱の世も平和の世も彦根はイイところ。

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イイね!2ついただきましたw

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近江牛のすき焼き!

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次回(12月23日)は吉祥寺です。

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