かつて陶磁器を運んでいた電車がどのように外堀を通っていたのかを体感してみます。

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名鉄瀬戸線:
昭和51年(1976)に外堀の区間は廃止
現在は外堀の地下を通っている

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名古屋人は略称好き?

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この先が瀬戸電名物のポイント

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直角に曲がっている。

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時速20kmで走ってもレールがきしむ。

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案内人の山田さんがこのポイントの鉄道模型を作ってきました。

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手作りの瀬戸電。

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進撃のタモリw

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続いて向かったのは西の端。
かつて瀬戸電の終点があった場所です。

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線路はここまであった。

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昭和46年に山田さんが撮った終着駅の写真。

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上の写真の電車横の石垣は今でもそのまま姿を残しています。

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電車は堀川のそばに来たかった。

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大正時代の写真。
右上あたりが瀬戸電の終点。
駅で降ろされた陶磁器は、堀川で船に乗せられ世界中に運ばれました。

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明治から昭和にかけて、陶磁器は名古屋の主要産業になりました。

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ところが産業が発展するにつれ、大きな問題が出てきた。

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昭和43年の堀川。
大混雑!

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タモリさんたちは堀川沿いを下流へ2キロ移動。
ここで渋滞を解消した工夫を探します。

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堀川と水門(右)。

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もう一つ水門が。

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水門が2つあるということは、コウモン?

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さりげなくセクハラ質問w

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もうあのコウモンしか思い浮かばないw

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コウモンとは閘門と書く。

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閘門:水位の違う川や運河を行き来するための施設

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ということは、向こうに水位の違う川がある?

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昭和5年、輸送能力の限界を迎えていた堀川のバイパスとして新たに巨大な運河を作りました。

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それが中川運河です。

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コウモンの中を覗いてみましょうw

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今は閘門の中は埋め立てられていますが、水があった当時の写真。

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堀川の渋滞の原因は輸送量の増加と”潮の影響”。
堀川は干潮になると船が通れないことがありました。

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そこで、中川運河を作った際、海側にも閘門を作り、潮の影響を受けないようにしました。

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中川運河ができたことによって堀川上流へ行く時間が大幅に短縮され、貨物の取扱量も増えた。

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海側の閘門はまだ現役なので、閘門を通過してみる。

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中川運河の幅は最大で91m。

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閘門の入り口。

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閘門に入る。

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閘門の中。
長さ100m、幅11m、深さ3m。

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後の門が閉まる。

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海側の門から水が流れてくる。

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水位が上がる。

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海と同じ水位になり、海側の門が開く。

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閘門を抜けてスッキリw

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続いてタモリさんたちがやって来たのは港から北東へ11km。
ここではるか昔のものづくりの痕跡を探します。

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東山動植物園

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ものづくりと動物園?

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ライオン。
ここはオッサンみたいな鳴き声のフクロテナガザルがいる動物園ですね。

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本題はライオンではなく反対側の斜面。

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地面をよく見ると意外なものが落ちている。

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陶器の破片。

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ここで昔陶器を作っていた。

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平安~鎌倉にかけての焼き物。
*文化財保護のため持ち出しは禁止されています

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このあたり(東部丘陵地帯)で採掘された陶器。

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古墳時代の焼き物もある。

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タモリさんたちが今いる場所。

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東部丘陵地帯には遺跡がたくさんある。

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このあたり一帯は陶器の一大生産地でした。

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古い時代の焼き物は赤っぽいイメージ。

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野焼きなので酸化して土が赤くなる。

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ここの焼き物は一度酸素を遮断して”焼き締め”をするので灰色で硬い焼き物ができる。

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古墳時代の中ごろに伝わったこの技術は地形や土に恵まれていた名古屋で一気に広まり、奈良~平安時代は名古屋で作られた陶器が平城京や平安京でも使われていました。

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東海地方には陶磁器の生産地が多い。

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突如ライオンが吠える。

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東海地方の焼き物のルーツはこのあたりにある。

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名古屋のものづくりの歴史は古い。

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エンディング♪
名古屋発祥の台湾ラーメン。

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次回(11月25日)は室蘭です。

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