名古屋城を後にしてタモリさんたちがやってきたのは、城から1kmほど南の街の中心部

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案内をしてくれるのは、名古屋市教育委員会の木村有作さん。

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まず注目するのは名古屋の町割り。
城の南に正方形の区画が並ぶ。

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江戸時代の絵図と見事に一致。
家康が作った城下町の町割り(碁盤割)がそのまま残っています。

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歩数を数えて、区画の長さを確かめる。

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昭和のオジサンたちと平成生まれのコンパスの差w

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区画の一辺は約100m。

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家康は一辺約100mの正方形を並べて碁盤割の町割りを作ったのです。

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碁盤割があるのは、台地の上の城の南側。

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名古屋駅は台地から外れている。

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実は名古屋は台地の上がまず栄えた街。

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家康は城の前の碁盤割の区画に町人を住まわせていた。
町人を優遇することが、家康の狙いでした。

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碁盤割の区画の魚ノ棚通りにやってきました。

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地元では魚ノ棚をウォンタナという。
カルロス・ウォンタナ、ジョー・ウォンタナw

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狭い間口の町屋が建ち並んでいたことがわかる。

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秀吉が作った大阪の街も間口が狭かった。
そして町屋の入口が面しているのは東西の通り。

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名古屋は東西南北全部の通りに町屋の入り口が面している。

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大阪は南北の通りが寂しい。

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名古屋は全方向の通りがにぎやか。
家康の狙いは、名古屋の城下町の経済的な繁栄だった。

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しかし、区画の真ん中のスペースはどうなるのか?

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現代の街を歩いて見ると、真ん中のスペースと思われる場所にはタワーパーキングが建っていました。

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江戸時代には真ん中のスペースには寺社が置かれたり、町屋の共有地として使われたりしました。

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人が住まないと町は完成しない。
そこで家康は当時の尾張の中心地である清州から数万人の町人たちを移住させました。

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町割りに共有スペースを作ったのも、共同体を維持して商売をしやすくするためだったのです。

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そして、この巨大な引っ越しの痕跡は今も町名に残っています。
七間(しちけん)町は清州時代の町名。

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町名もそのまま清州から名古屋に引っ越したのです。

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多くの清州の町名が名古屋でも使われていました。

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久屋大通?
100m道路と言われると、わかります。

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久屋大通も家康の町づくりを利用して作った。

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久屋大通は家康が作った碁盤割の一番東の区画を利用している。

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久屋大通は日本のシャンゼリゼ?

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ということで、「尾張名古屋は家康でもつ」。

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なぜ家康がこの台地に城と城下町を作ったのか?
その理由は台地の南端に行くとわかる。

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今回はここまで。

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次回(6月17日)は名古屋・熱田です。

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エンディング♪

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今後のラインナップも目白押し。

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