京都祇園・花見小路からスタート。

お昼になるとものすごい人出になるので、早朝ロケ。
現在午前7時半。

馬?

タモカメ舞妓さんバージョン。

旅のお題は「日本一の花街・祇園はどうできた?」。

近江アナは初祇園。
タモリさんも祇園でお酒を飲んだことはない。

最初の案内人は、生まれも育ちも祇園の太田磯一さん。

芸妓の豆六さん(左)と舞妓の豆千佳さん(右)。
舞妓さんは芸妓さんになるための修行中の身。

舞妓さんは昔の子供の恰好。
帯は「だらりの帯」。
自分の髪を結い、季節の花のかんざしを挿します。
芸妓さんになると髪はカツラになり、大人の姿に。

祇園は鴨川と八坂神社の間、四条通を挟んで北と南にあります。

タモリさんたちは美しいたたずまいの南側の街並みを歩いてみます。

お茶屋さんの許可証。

お茶屋と言っても、お茶を売っているわけではないw

お茶屋さんはお客さんがお酒を飲みながら、お座敷遊びをするところ。

ふらっと来て、気軽に立ち寄れる場所ではない。

もちろん、ブラタモリ様なので特別に中に入れてもらう。

お茶屋:お座敷があり、酒や料理とともに舞妓・芸妓の芸を楽しめる

舞妓・芸妓は普段はお茶屋さんにはいません。
デリバリーシステム?

舞妓さんたちがいる場所を見に花街を奥に進みます。

髪はいっぺん結ってもらったら一週間はこのまま。
寝るときは時代劇に出てくるような箱枕を使います。

タモリ「(2週間ぐらいシャンプーしなくても)大丈夫だよね」
豆千佳「そ、そうどすね…」

ここが、豆六さんと豆千佳さんが普段いるところ。
二人は豆爾姐さんの妹分。

ブラタモリボケ担当w
舞妓さん、芸妓さんが住んでいるところは、「置屋」といいます。

犬はお茶屋に呼べませんw

豆六さん、豆千佳さんのお兄さんになります。

こちらは仕出し屋さん。

仕出し屋:お茶屋から注文を受け、料理を作って届けるところ
客の食べるペースに合わせ一品ずつ配達する(約15分間隔)

お茶屋から注文をうけ、料理を届ける仕出し屋。
舞妓さん芸妓さんを派遣する置屋。
これらを手配してお座敷をプロデュースするお茶屋。
祇園の花街はこの3つの分業によって成り立っているのです。

分業により、お客さんの好みに合わせたサービスが可能になります。
よりきめ細かいサービスを提供するために「一見さんお断り」がある。

南側の花街ができたのは明治以降。

今の花街がある場所は、江戸時代まで建仁寺の境内だった。

明治時代「廃仏毀釈」によって政府が建仁寺の北側を没収し、祇園の組合に払い下げた。

タモリさんたちはそれ以前に花街があった境内の外側に行ってみることに。

道が曲がり始めるところまでが、かつての建仁寺の境内。

かつての境内の外側にある赤い建物はお茶屋さんの一力亭。

忠臣蔵の大石内蔵助は仇を油断させるために遊びほうけてみせた。
そこで通い詰めたのがこの一力亭。

一力亭は花見小路と四条通の角にある。
つまり、かつて花街は四条通沿いにあった。

今の四条通には花街の面影がほとんどない。

明治時代の四条通には花街があった。

明治時代の一力亭。

現在の四条通から見る一力亭。

現在花見小路側にある一力亭の玄関は、大正元年まで四条通側にありました。
一力亭の玄関の位置と花街の移転は実は関係があります。

ここでお三方とはお別れ。

花街が移転した理由を知るため、タモリさんたちは四条通を東に進みます。

梅林秀行さん登場。
京都の案内人と言えば、この人。

八坂神社の前までやってきました。
花街移転の理由は、八坂神社にある?

八坂神社が一段高い位置にあるのは?
近江アナ正解。

八坂神社の西楼門は断層の上に建てられています。

八坂神社・西楼門の石段は京都盆地のヘリ。
そして、聖と俗の境目。

断層崖を登る。

「大正」と刻まれた石碑を発見。

石碑の解読のために専門家に来てもらいました。
京都国立博物館の下坂守さん。

「大正二年十一月西門を移転改築為す」と書いてあるそうです。

西楼門は北へ3m、東へ6m移動していた。
この西楼門のズレが花街の移転と深く関係している?

祇園②に続く

豆六さん、豆千佳さんのお兄さんになります。

こちらは仕出し屋さん。

仕出し屋:お茶屋から注文を受け、料理を作って届けるところ
客の食べるペースに合わせ一品ずつ配達する(約15分間隔)

お茶屋から注文をうけ、料理を届ける仕出し屋。
舞妓さん芸妓さんを派遣する置屋。
これらを手配してお座敷をプロデュースするお茶屋。
祇園の花街はこの3つの分業によって成り立っているのです。

分業により、お客さんの好みに合わせたサービスが可能になります。
よりきめ細かいサービスを提供するために「一見さんお断り」がある。

南側の花街ができたのは明治以降。

今の花街がある場所は、江戸時代まで建仁寺の境内だった。

明治時代「廃仏毀釈」によって政府が建仁寺の北側を没収し、祇園の組合に払い下げた。

タモリさんたちはそれ以前に花街があった境内の外側に行ってみることに。

道が曲がり始めるところまでが、かつての建仁寺の境内。

かつての境内の外側にある赤い建物はお茶屋さんの一力亭。

忠臣蔵の大石内蔵助は仇を油断させるために遊びほうけてみせた。
そこで通い詰めたのがこの一力亭。

一力亭は花見小路と四条通の角にある。
つまり、かつて花街は四条通沿いにあった。

今の四条通には花街の面影がほとんどない。

明治時代の四条通には花街があった。

明治時代の一力亭。

現在の四条通から見る一力亭。

現在花見小路側にある一力亭の玄関は、大正元年まで四条通側にありました。
一力亭の玄関の位置と花街の移転は実は関係があります。

ここでお三方とはお別れ。

花街が移転した理由を知るため、タモリさんたちは四条通を東に進みます。

梅林秀行さん登場。
京都の案内人と言えば、この人。

八坂神社の前までやってきました。
花街移転の理由は、八坂神社にある?

八坂神社が一段高い位置にあるのは?
近江アナ正解。

八坂神社の西楼門は断層の上に建てられています。

八坂神社・西楼門の石段は京都盆地のヘリ。
そして、聖と俗の境目。

断層崖を登る。

「大正」と刻まれた石碑を発見。

石碑の解読のために専門家に来てもらいました。
京都国立博物館の下坂守さん。

「大正二年十一月西門を移転改築為す」と書いてあるそうです。

西楼門は北へ3m、東へ6m移動していた。
この西楼門のズレが花街の移転と深く関係している?

祇園②に続く
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