ということで、やってきたのは新神戸駅のすぐ近く。
やっぱり高い所だったw
兵庫県で4番目に高いビル。
毒づくタモリw
雑居地が見渡せる高層階。
先ほど訪れた風見鶏の異人館も見えます。
現在、雑居地の北東の端にいます。
雑居地の北の端は、山の急斜面が壁になっています。
東と西の端は川を境界にしました。
自然地形に囲まれていたことが、広大な雑居地を認めることができた理由になっていたのです。
雑居地の中では日本人と外国人が隣り合って暮らし、神戸はハイカラになっていったのです。
前回勉強したように、江戸時代までは兵庫津が中心地。
兵庫津:江戸時代までの神戸の中心地
現在の神戸市兵庫区周辺
明治時代の地図も「兵庫&神戸」。
別の街として描かれている。
外国人が住む雑居地の隣には日本人が住む大きな街、兵庫があった。
この二つの街の間にある境界のようなものは何?
この境界の痕跡を求めて歩いていくと、正面に段差が…。
この段差は何?
ここで新しい案内人、佐々木良作さんも加わり、段差の正体を確かめてゆきます。
佐々木さんは元兵庫県職員で土木担当でした。
階段を登り、段差の上へ。
運動したらすぐ暗算w
段差は6~7mある。
段差は途切れているので、河岸段丘ではない。
段差は南北につながっていた。
天井川?
天井川とは?
平地を流れる川に洪水で大量の土砂が流れ込むと、川底が上がります。
人間は次の洪水に備えて堤防を高くします。
また洪水が起こると再び川底が上がります。
これを繰り返し、天井より高い所を流れるようになった川を天井川と言います。
ここにはかつて湊川という天井川が流れていました。
6~7mの高さがある湊川が壁になり、神戸の外国人と兵庫の日本人との接触を防ぐことができました。
しかし、明治も半ばになってくると、外国人に対する警戒心も薄れてきました。
兵庫と神戸が発展するにつれ、むしろ湊川という壁が邪魔になってきました。
そこで湊川を迂回させ、天井川の湊川は埋め立てられました。
川はなくなりましたが、壁は残ったまま。
二つの街はどうやって行き来したのでしょう。
タモリさんたちは「新開地」という商店街にやってきました。
この商店街はかなりの下り坂。
明治38年、商店街の入り口から下流に向けて、天井川が作った壁を斜めに削りました。
そして、段差のなくなった場所に二つの街をつなぐ大きな道を通したのです。
さらに新しくできた新開地は、神戸のハイカラ文化発展の舞台となりました。
昭和初期の新開地の復元図。
映画館や劇場が建ち並ぶ、神戸一の繁華街。
最盛期には1㎞の商店街に24もの映画館や劇場がありました。
その賑わいは「東の浅草」、「西の新開地」と謳われ、最先端のハイカラ文化の発信地となったのです。
映画評論家の淀川長治さんも新開地で生まれ育ちました。
さらに二つの街の融合は、日本のスイーツの歴史まで変えてしまいました。
ということでやって来たのは、新開地から1km東、ドラマ「べっぴんさん」のモデルになった商店街です。
亀井堂総本店。
日本のスイーツを変えたお菓子がここにある?
製造現場を見学。
瓦せんべいは、明治6年に5代目の高祖父が考案した神戸発祥のお菓子。
焼きたては柔らかいが、すぐにパリパリになる。
瓦せんべいのもとになった和菓子は紅梅焼。
紅梅焼:江戸時代に庶民に愛された菓子
梅の花のような形から名前がついた
紅梅焼はメッチャ堅いw
この紅梅焼にたっぷりの卵と砂糖を加えてできたのが、瓦せんべい。
開港して外国人が住むようになった神戸では、砂糖や卵を手に入れやすかったのです。
見た目と名前は和風、材料は洋風。
和と洋がまざった瓦せんべいはハイカラ。
その後、瓦せんべいが全国的に広まったことで、小麦粉が大量に必要になりました。
ちょうどその頃、兵庫に製粉工場が開業。
良質な小麦粉が神戸の近くで生産されるようになり、ケーキやクッキーなど小麦粉を使うお菓子の店が神戸にたくさん生まれました。
こうして、洋菓子文化は神戸から全国に広まったのです。
神戸市の市章。
二つの半円は兵庫と神戸の融合を表しています。
最後に兵庫と神戸が一つになるうえでに欠かせなかった場所を訪れます。
ということで、西に2㎞ほどの住宅街に移動。
湊川隧道:明治34~平成12年
湊川の水路として使われたトンネル。
湊川隧道は、湊川を付け替えた(迂回させた)時の川の一部です。
これがあったから兵庫と神戸は一つになったのです。
まとめ
・広大な雑居地で和と洋の文化が融合した
・兵庫と神戸を分断していた天井川を取り払った
・工業化が進んだ兵庫と雑居地の神戸が融合し、さらにハイカラ文化が発展した
エンディング♪
おまけ。
特製ブラタモリせんべい。
タモリさん、満足げw
次回(3月4日)は奄美大島です。
これを繰り返し、天井より高い所を流れるようになった川を天井川と言います。
ここにはかつて湊川という天井川が流れていました。
6~7mの高さがある湊川が壁になり、神戸の外国人と兵庫の日本人との接触を防ぐことができました。
しかし、明治も半ばになってくると、外国人に対する警戒心も薄れてきました。
兵庫と神戸が発展するにつれ、むしろ湊川という壁が邪魔になってきました。
そこで湊川を迂回させ、天井川の湊川は埋め立てられました。
川はなくなりましたが、壁は残ったまま。
二つの街はどうやって行き来したのでしょう。
タモリさんたちは「新開地」という商店街にやってきました。
この商店街はかなりの下り坂。
明治38年、商店街の入り口から下流に向けて、天井川が作った壁を斜めに削りました。
そして、段差のなくなった場所に二つの街をつなぐ大きな道を通したのです。
さらに新しくできた新開地は、神戸のハイカラ文化発展の舞台となりました。
昭和初期の新開地の復元図。
映画館や劇場が建ち並ぶ、神戸一の繁華街。
最盛期には1㎞の商店街に24もの映画館や劇場がありました。
その賑わいは「東の浅草」、「西の新開地」と謳われ、最先端のハイカラ文化の発信地となったのです。
映画評論家の淀川長治さんも新開地で生まれ育ちました。
さらに二つの街の融合は、日本のスイーツの歴史まで変えてしまいました。
ということでやって来たのは、新開地から1km東、ドラマ「べっぴんさん」のモデルになった商店街です。
亀井堂総本店。
日本のスイーツを変えたお菓子がここにある?
製造現場を見学。
瓦せんべいは、明治6年に5代目の高祖父が考案した神戸発祥のお菓子。
焼きたては柔らかいが、すぐにパリパリになる。
瓦せんべいのもとになった和菓子は紅梅焼。
紅梅焼:江戸時代に庶民に愛された菓子
梅の花のような形から名前がついた
紅梅焼はメッチャ堅いw
この紅梅焼にたっぷりの卵と砂糖を加えてできたのが、瓦せんべい。
開港して外国人が住むようになった神戸では、砂糖や卵を手に入れやすかったのです。
見た目と名前は和風、材料は洋風。
和と洋がまざった瓦せんべいはハイカラ。
その後、瓦せんべいが全国的に広まったことで、小麦粉が大量に必要になりました。
ちょうどその頃、兵庫に製粉工場が開業。
良質な小麦粉が神戸の近くで生産されるようになり、ケーキやクッキーなど小麦粉を使うお菓子の店が神戸にたくさん生まれました。
こうして、洋菓子文化は神戸から全国に広まったのです。
神戸市の市章。
二つの半円は兵庫と神戸の融合を表しています。
最後に兵庫と神戸が一つになるうえでに欠かせなかった場所を訪れます。
ということで、西に2㎞ほどの住宅街に移動。
湊川隧道:明治34~平成12年
湊川の水路として使われたトンネル。
湊川隧道は、湊川を付け替えた(迂回させた)時の川の一部です。
これがあったから兵庫と神戸は一つになったのです。
まとめ
・広大な雑居地で和と洋の文化が融合した
・兵庫と神戸を分断していた天井川を取り払った
・工業化が進んだ兵庫と雑居地の神戸が融合し、さらにハイカラ文化が発展した
エンディング♪
おまけ。
特製ブラタモリせんべい。
タモリさん、満足げw
次回(3月4日)は奄美大島です。
コメント
コメント一覧 (3)
神戸市兵庫区は横浜市神奈川区と同様に県名の由来になったのが中心部は居留地側に移転してしまった共通点があります。
神戸市中央区は1980年に生田区と葺合区が合併した区ですが、
旧生田区は神戸区と名乗ってもよかったかも知れません
(川崎市川崎区や堺市堺区の例がある。旧湊川と旧生田川に挟まれた旧生田区が本来の神戸だった)。
旧生田川は現在は「神戸最大の繁華街」三宮を縦断するフラワーロード(県道30号)になっています。神戸市役所もフラワーロード沿いにあります。
中央区と兵庫区の境は国道428号(有馬街道)であり旧湊川から東へ300mずれています。
湊川公園は湊川が付け替えてられてから後、
1928(昭和3)年に神鉄有馬本線の湊川駅が開業していますが、
西日本(東海北陸以西)初の地下駅であり、
JR仙石線仙台駅(1925)やメトロ銀座線上野~浅草(1927)に次いで全国3番目の地下駅でした。
神戸市営地下鉄は1977年3月13日の名谷駅~新長田駅間から順次開業しましたが、神鉄湊川駅はその約半世紀も前から地下駅だったとは。
新開地商店街は旧湊川ですが、1960年代から三宮・元町へのシフト化で衰退しました。
新開地がもし
大阪の難波、
名古屋の栄、
横浜の関内、
京都の四条河原町、
福岡の天神
みたいな繁華街だったら、
神戸の繁華街は三宮・元町エリアと新開地エリアに2分極していたのだが。
神戸は先週分のブラタモリと合わせて、街の成り立ちがよくわかりました。
古い港町の兵庫と雑居地だった神戸。
二つの街が融合して発展していった歴史はとても興味深いものでした。
近江アナは若いのに淀川長治さんを知っていたようでしたね。
淀川長治さんはテレビ朝日の日曜洋画劇場の解説を長く務められ、日曜のお茶の間の夜の顔でした。
淀川さんといえば日曜洋画劇場(テレ朝系・日曜)、
さよなら×3を思い出します。
淀川さんのような映画解説者といえば、
他局だと水野さん(日テレ系・金曜)や高島さん(フジ系・土曜)を思い出します。
もし10年早く生まれていたら水野さんは金曜ロードショーではなく前身の水曜ロードショーを連想したかも知れませんが
(現在33歳なので水曜ロードショー時代は知らない)、
水曜ロードショーは現在TOKYOMX(9チャン)等で放送されている大泉洋さんの某番組の由来だったりします。
高島さんの方はゴールデン洋画劇場のゴールデンの書体が現在、某音楽グループ名の書体にも使われていたり。
某音楽グループは某大リーガー(1986年生まれ、大阪府羽曳野市出身、東北高校→日ハム)の姓を北海道の地名みたいな当て字にしたメンバーがいます。