大坂城前からスタート。
今回は真田丸スペシャルです。
旅のテーマは「大坂城はなぜ難攻不落?」。
案内人は、大阪城天守閣館長の北川央さん。
大坂城の難攻不落は大坂冬の陣(1614年)で世に知らしめられた。
真田丸で真田信繁(幸村)が活躍する戦ですね。
しかし、現在の大坂城は、徳川幕府の大坂城。
豊臣の大坂城は埋められてしまった。
時節柄”盛り土”には敏感w
難攻不落の豊臣大坂城の痕跡を求めて、タモリさん一行は本丸にやってきました。
丸い井戸のようなものが…。
この底に痕跡があるそうです。
カメラマンが約7m下に降りて、撮影。
豊臣大坂城の石垣がありました。
豊臣大坂城は完全に埋められて、そのうえに徳川大坂城が築かれた。
しかし、埋められて百何十年か経つころにはみんなそのことを忘れて、徳川大坂城が豊臣大坂城だと思っていた。
昭和の学術調査で豊臣大坂城が発見されたことは歴史的大発見だったのですが、徳川大坂城を豊臣大坂城だと思っていた秀吉好きの大阪府民を驚かせないために、この発見は発表されなかったそうです。
また豊洲ネタw
次にタモリさん一行が向かったのは城のすぐ北側のビル。
ここで大坂城の立地を確かめます。
前回放送の「大阪」でも解説したように、三方を湿地に囲まれた台地の上にある大坂城。
城の立地としては最高の場所です。
今の京橋駅のあたりで大坂冬の陣の戦いがあったそうです。
一行は低湿地での戦いを知るために京橋駅の近くに移動します。
前回登場した大阪高低差学会の新之介さんと大阪歴史博物館の大澤研一さんに案内してもらいます。
坂を上る。
ビルがなければ正面に大坂城が見えるはず。
道の両側は下がっています。
なぜなんでしょう?
明治時代の地図を見ると、今赤い線の上を歩いている。
青いのは川。
つまり、赤い線は自然にできた堤防だった。
戦いができるのは狭い堤防の上。
つまり、こんな感じだった?
今回は真田丸スペシャルです。
旅のテーマは「大坂城はなぜ難攻不落?」。
案内人は、大阪城天守閣館長の北川央さん。
大坂城の難攻不落は大坂冬の陣(1614年)で世に知らしめられた。
真田丸で真田信繁(幸村)が活躍する戦ですね。
しかし、現在の大坂城は、徳川幕府の大坂城。
豊臣の大坂城は埋められてしまった。
時節柄”盛り土”には敏感w
難攻不落の豊臣大坂城の痕跡を求めて、タモリさん一行は本丸にやってきました。
丸い井戸のようなものが…。
この底に痕跡があるそうです。
カメラマンが約7m下に降りて、撮影。
豊臣大坂城の石垣がありました。
豊臣大坂城は完全に埋められて、そのうえに徳川大坂城が築かれた。
しかし、埋められて百何十年か経つころにはみんなそのことを忘れて、徳川大坂城が豊臣大坂城だと思っていた。
昭和の学術調査で豊臣大坂城が発見されたことは歴史的大発見だったのですが、徳川大坂城を豊臣大坂城だと思っていた秀吉好きの大阪府民を驚かせないために、この発見は発表されなかったそうです。
また豊洲ネタw
次にタモリさん一行が向かったのは城のすぐ北側のビル。
ここで大坂城の立地を確かめます。
前回放送の「大阪」でも解説したように、三方を湿地に囲まれた台地の上にある大坂城。
城の立地としては最高の場所です。
今の京橋駅のあたりで大坂冬の陣の戦いがあったそうです。
一行は低湿地での戦いを知るために京橋駅の近くに移動します。
前回登場した大阪高低差学会の新之介さんと大阪歴史博物館の大澤研一さんに案内してもらいます。
坂を上る。
ビルがなければ正面に大坂城が見えるはず。
道の両側は下がっています。
なぜなんでしょう?
明治時代の地図を見ると、今赤い線の上を歩いている。
青いのは川。
つまり、赤い線は自然にできた堤防だった。
戦いができるのは狭い堤防の上。
つまり、こんな感じだった?
次にタモリさん一行は大坂城から南に2㎞の場所に移動。
南側の防御を確かめます。
案内人は、大阪文化財研究所の積山洋さんです。
一行は南からの徳川軍の進軍ルートをたどります。
道は途中から下り坂になり、すぐにまた上り坂になっていました。
これは、空堀の痕跡。
長さが30~40m、深さが10m以上の巨大な空堀です。
南側は空堀、他三方は水堀。
本丸と城下町は堀や土塁に囲まれていたのです。
この出っ張りは何のため?
出っ張りがあると防御をしやすかった。
出っ張りがある南西側に対して南東側は直線的。
つまり防御が弱い?
その南東側に出城を構えたのが、真田左衛門佐。
ついに出た真田丸!
唯一の弱点だった南東に真田丸を作ることで、難攻不落の大坂城が完成。
ところが、真田丸の本当の姿はよくわかっていません。
というのも、冬の陣のあと真田丸は徹底的に壊されてしまったから。
東八町目之御門の東、
一段高き畑御座候を、
(中略)
是を真田が出城と申候。
このヒントを頼りにタモリさん一行は真田丸があった場所を探します。
ビルの屋上から場所を確認。
グランドが一段高い畑?
ここで新之介さんが新たなヒントを見せてくれます。
今年2月に島根県松江で見つかった絵図。
かなり詳細に地形が描かれています。
”寺”の文字も書かれています。
この絵図は大坂城の地形図に重ねるとぴったりと一致します。
お寺発見。
タモリさん一行は真田丸を捜しに行きます。
モーゼかw
タモリ認定:真田丸の出丸
近江「真田感ないですね」
現代ですからw
さらに心眼寺がある出丸の東側の道を歩く一行。
明治時代の古地図の凹みの白い部分と空堀(出丸の茶色のライン)が一致。
心眼寺の敷地を真田丸の絵図の東側の崖に認定。
最後は徳川軍が攻めてきた南側。
ここは幅45mの空堀があった場所。
残念ながら痕跡は見つかりませんでした。
徳川方に1万人もの死傷者を出したと言われるこの場所は、大坂冬の陣のあと、徳川方によって徹底的に破壊されたのかもしれません。
空堀と鉄砲を撃つ真田勢。
大坂城と真田丸。
真田丸が在ったと思われる場所と現在の地形。
タモリさん、真田丸新仮説に自信満々w
エンディング♪
おまけ。
タモリさん認定、ステキな坂(心眼寺坂)。
次回は知床です。
南側の防御を確かめます。
案内人は、大阪文化財研究所の積山洋さんです。
一行は南からの徳川軍の進軍ルートをたどります。
道は途中から下り坂になり、すぐにまた上り坂になっていました。
これは、空堀の痕跡。
長さが30~40m、深さが10m以上の巨大な空堀です。
南側は空堀、他三方は水堀。
本丸と城下町は堀や土塁に囲まれていたのです。
この出っ張りは何のため?
出っ張りがあると防御をしやすかった。
出っ張りがある南西側に対して南東側は直線的。
つまり防御が弱い?
その南東側に出城を構えたのが、真田左衛門佐。
ついに出た真田丸!
唯一の弱点だった南東に真田丸を作ることで、難攻不落の大坂城が完成。
ところが、真田丸の本当の姿はよくわかっていません。
というのも、冬の陣のあと真田丸は徹底的に壊されてしまったから。
東八町目之御門の東、
一段高き畑御座候を、
(中略)
是を真田が出城と申候。
このヒントを頼りにタモリさん一行は真田丸があった場所を探します。
ビルの屋上から場所を確認。
グランドが一段高い畑?
ここで新之介さんが新たなヒントを見せてくれます。
今年2月に島根県松江で見つかった絵図。
かなり詳細に地形が描かれています。
”寺”の文字も書かれています。
この絵図は大坂城の地形図に重ねるとぴったりと一致します。
お寺発見。
タモリさん一行は真田丸を捜しに行きます。
モーゼかw
タモリ認定:真田丸の出丸
近江「真田感ないですね」
現代ですからw
さらに心眼寺がある出丸の東側の道を歩く一行。
明治時代の古地図の凹みの白い部分と空堀(出丸の茶色のライン)が一致。
心眼寺の敷地を真田丸の絵図の東側の崖に認定。
最後は徳川軍が攻めてきた南側。
ここは幅45mの空堀があった場所。
残念ながら痕跡は見つかりませんでした。
徳川方に1万人もの死傷者を出したと言われるこの場所は、大坂冬の陣のあと、徳川方によって徹底的に破壊されたのかもしれません。
空堀と鉄砲を撃つ真田勢。
大坂城と真田丸。
真田丸が在ったと思われる場所と現在の地形。
タモリさん、真田丸新仮説に自信満々w
エンディング♪
おまけ。
タモリさん認定、ステキな坂(心眼寺坂)。
次回は知床です。
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