那覇・国際通りからスタート。

今日のお題は「那覇は二つある!?」
那覇を案内してくれるのは、那覇市歴史博物館 館長の古塚達朗さん。

国際通りが今日のお題のカギとなるそうです。

国際通りは那覇の中心街を1.6㎞にわたって貫く那覇のメインストリート。
国際通りの名前の由来は昭和23年に開館した国際劇場(映画館)です。

戦前の国際通り周辺は人がほとんど住んでいない荒地でした。

実は戦前の那覇の中心街は海に近いピンクの地域。

一行は、戦前の那覇の中心街(オールド那覇)に移動します。
国際通りから1kmほど離れた海岸。

ノッチ(波食窪):波で浸食されてできたくぼみ

パフュームの「のっち」を思いだす桑子アナw

タモリさん、このあたりの地形から周辺が埋め立てられていたことを当てる。

約600年前、このオールド那覇は島だった。
(グリーンは埋め立て地)

タモリさんたちがいた海岸の岩の上は、波の上宮という沖縄を代表する神社。
オールド那覇は港町でした。

波の上宮の裏手には御嶽(うたき:沖縄に古くからある祈りの場所、岩や木など自然物を崇拝する)がありました。
およそ600年前にこの場所に日本人(やまとんちゅう)が神社(波の上宮)を建てたそうです。

オールド那覇の発展を支えたのは、中国からやってきた人たち。
天尊廟・天妃宮:航海・漁業の神、天妃など中国で信仰される道教の神が祭られている

600年ほど前から那覇に住み始めた中国人は航路の案内人や通訳として琉球の貿易を支えました。
島であったオールド那覇は長崎の出島のような外国人居留地になったのだそうです。

中国から来た人たちの村は久米村(クニンダ)と呼ばれました。

古謝さんと垣花さんはクニンダの人々の子孫。

先祖が久米村にやってきた時代や名前もわかっています。
梁→古謝、毛→垣花

戦闘機の音で一時中断。

交易が盛んになるにつれ、島であるオールド那覇は交通の便が悪くデメリットになってきました。
王都・首里と港町・那覇をどう結んだのか、その痕跡を探ります。
街中で茂みと、

微妙に不自然な段差を発見。
これこそが那覇と首里を結ぶ道の痕跡。

2つの茂みは小さな島の痕跡。
この二つの島を伝う形で、堤(長虹堤)が作られていたのです。

長虹堤:1451年 那覇と首里を結ぶために琉球王国が作った堤。全長約1km。


今日のお題は「那覇は二つある!?」
那覇を案内してくれるのは、那覇市歴史博物館 館長の古塚達朗さん。

国際通りが今日のお題のカギとなるそうです。

国際通りは那覇の中心街を1.6㎞にわたって貫く那覇のメインストリート。
国際通りの名前の由来は昭和23年に開館した国際劇場(映画館)です。

戦前の国際通り周辺は人がほとんど住んでいない荒地でした。

実は戦前の那覇の中心街は海に近いピンクの地域。

一行は、戦前の那覇の中心街(オールド那覇)に移動します。
国際通りから1kmほど離れた海岸。

ノッチ(波食窪):波で浸食されてできたくぼみ

パフュームの「のっち」を思いだす桑子アナw

タモリさん、このあたりの地形から周辺が埋め立てられていたことを当てる。

約600年前、このオールド那覇は島だった。
(グリーンは埋め立て地)

タモリさんたちがいた海岸の岩の上は、波の上宮という沖縄を代表する神社。
オールド那覇は港町でした。

波の上宮の裏手には御嶽(うたき:沖縄に古くからある祈りの場所、岩や木など自然物を崇拝する)がありました。
およそ600年前にこの場所に日本人(やまとんちゅう)が神社(波の上宮)を建てたそうです。

オールド那覇の発展を支えたのは、中国からやってきた人たち。
天尊廟・天妃宮:航海・漁業の神、天妃など中国で信仰される道教の神が祭られている

600年ほど前から那覇に住み始めた中国人は航路の案内人や通訳として琉球の貿易を支えました。
島であったオールド那覇は長崎の出島のような外国人居留地になったのだそうです。

中国から来た人たちの村は久米村(クニンダ)と呼ばれました。

古謝さんと垣花さんはクニンダの人々の子孫。

先祖が久米村にやってきた時代や名前もわかっています。
梁→古謝、毛→垣花

戦闘機の音で一時中断。

交易が盛んになるにつれ、島であるオールド那覇は交通の便が悪くデメリットになってきました。
王都・首里と港町・那覇をどう結んだのか、その痕跡を探ります。
街中で茂みと、

微妙に不自然な段差を発見。
これこそが那覇と首里を結ぶ道の痕跡。

2つの茂みは小さな島の痕跡。
この二つの島を伝う形で、堤(長虹堤)が作られていたのです。

長虹堤:1451年 那覇と首里を結ぶために琉球王国が作った堤。全長約1km。

一行はさらにオールド那覇繁栄の痕跡を探るため、米軍基地にやってきました。

那覇港港湾施設(那覇軍港):アメリカ陸軍が使用する港。
沖縄県内31か所ある米軍施設の一つ。

ゲートのあたりはセキュリティの関係上撮影できないのでいったん撮影中断。

やってきたのは那覇軍港の海際の一角。
琉球時代は御物城(おものぐすく)と呼ばれた小島です。
陶器の破片が落ちていました。

拾った陶器の破片を専門家に鑑定してもらいます。

中国の南、500年ぐらい前のモノ。

適当に言った明時代が正解。
どや顔のタモリさんw

御物城には貿易品を管理する倉庫があったため、15世紀ごろの明の青磁の破片が大量に見つかっているそうです。
14~16世紀、琉球は東アジアと東南アジアの貿易の要所でした。

青磁器の破片がたくさん落ちているのは、検品で割れたものを捨てていたから。
海から陸に荷揚げしていた門が残っていました。

倉庫があった眺めの良い高台にはかつて料亭(風月楼 明治32年~昭和19年)があったそうです。

オールド那覇は琉球王国がなくなった明治以降は首里に代わり商業だけではなく、政治的にも沖縄の中心地になりました。

しかし、太平洋戦争の空襲により、500年以上繁栄したオールド那覇は失われてしまいました。
こうして、那覇はニュー那覇として中心地が移動するのですが、なぜ移動する必要があったのでしょうか。
この謎を解き明かすため、タモリさん一行は国際通りの近くに戻ります。

一行がまずやってきたのは、壺屋やちむん(焼き物)通り。
ニュー那覇の発展はこの壺屋地区から始まりました。
壺屋地区は琉球時代から300年以上の歴史を持つ焼き物の産地です。

壺屋地区の民家の石垣に出っ張りを発見。
これはシーザーが風化したもの。
壺屋地区は戦災をあまり被っていないので古い民家が残っているそうです。

登り窯:斜面を利用して作られた陶磁器などを焼くための窯。

戦後なぜオールド那覇からニュー那覇に中心が移されてしまったのか。
それは、米軍の軍港の半径1マイル(1,6㎞)を立ち入り禁止区域にしたから。

この区域に民間人の立ち入りが許されるようになったのは戦後6年経ってからの事だそうです。
戦争が終わり、米軍から食料の配給はありましたが、食器がない。
食器の生産地として壺屋地区の復興、そしてニュー那覇の発展が始まったのです。
壺屋地区に隣接する平和通り商店街。

終戦直後ここには闇市が建ち並んでいました。

闇市を整理してできたのが第一牧志公設市場。
現在では観光スポットになっています。

こうして市場が発展し、本島北部や離島からも人が集まってくるようになるのですが、土地は限られています。
そこで狭い土地を有効活用する究極の土地活用法が生み出されました。
公設市場周辺の商店街はよく見るとあちらこちらに段差が見られます。

国際通りから見る市場本通り(右:くまもんの看板)とむつみ橋通り街(左)の入り口。

実はこの間には川が流れていて、橋(むつみ橋)がありました。
上の写真の中央(HAPiNAHAの看板)には下に川が流れています。

川の上にある店舗は水上店舗と呼ばれ、水上店舗ができる前の風景はこんな感じでした(1950年代)。
ガーブ川と呼ばれる川の土手の両岸にバラックが建っていました。

戦後土地のない人たちがガーブ川の土手に小屋を建て商売を始めたのです。

水上店舗ができたきっかけはガーブ川に頻繁に起こる洪水でした。

岸の一方が低くなっていたので、川の水が溢れやすくなっていたのです。

そこで洪水を防ぐため、川を覆い、その上に建物(水上店舗)を建てました(1964年完成)。

川があったころから商売を営んでいた洲鎌徳次郎さん(86)。
宮古島から出てきてこの地で60年頑張ってきたそうです。

最後にガーブ川が見える場所にやって来ました。
タモリさんはニュー那覇を歩いてみて人間臭さを感じたそうです。

おまけ。
壺屋はネコの町としても有名。

タモリ「いい町だねぇ」


那覇港港湾施設(那覇軍港):アメリカ陸軍が使用する港。
沖縄県内31か所ある米軍施設の一つ。

ゲートのあたりはセキュリティの関係上撮影できないのでいったん撮影中断。

やってきたのは那覇軍港の海際の一角。
琉球時代は御物城(おものぐすく)と呼ばれた小島です。
陶器の破片が落ちていました。

拾った陶器の破片を専門家に鑑定してもらいます。

中国の南、500年ぐらい前のモノ。

適当に言った明時代が正解。
どや顔のタモリさんw

御物城には貿易品を管理する倉庫があったため、15世紀ごろの明の青磁の破片が大量に見つかっているそうです。
14~16世紀、琉球は東アジアと東南アジアの貿易の要所でした。

青磁器の破片がたくさん落ちているのは、検品で割れたものを捨てていたから。
海から陸に荷揚げしていた門が残っていました。

倉庫があった眺めの良い高台にはかつて料亭(風月楼 明治32年~昭和19年)があったそうです。

オールド那覇は琉球王国がなくなった明治以降は首里に代わり商業だけではなく、政治的にも沖縄の中心地になりました。

しかし、太平洋戦争の空襲により、500年以上繁栄したオールド那覇は失われてしまいました。
こうして、那覇はニュー那覇として中心地が移動するのですが、なぜ移動する必要があったのでしょうか。
この謎を解き明かすため、タモリさん一行は国際通りの近くに戻ります。

一行がまずやってきたのは、壺屋やちむん(焼き物)通り。
ニュー那覇の発展はこの壺屋地区から始まりました。
壺屋地区は琉球時代から300年以上の歴史を持つ焼き物の産地です。

壺屋地区の民家の石垣に出っ張りを発見。
これはシーザーが風化したもの。
壺屋地区は戦災をあまり被っていないので古い民家が残っているそうです。

登り窯:斜面を利用して作られた陶磁器などを焼くための窯。

戦後なぜオールド那覇からニュー那覇に中心が移されてしまったのか。
それは、米軍の軍港の半径1マイル(1,6㎞)を立ち入り禁止区域にしたから。

この区域に民間人の立ち入りが許されるようになったのは戦後6年経ってからの事だそうです。
戦争が終わり、米軍から食料の配給はありましたが、食器がない。
食器の生産地として壺屋地区の復興、そしてニュー那覇の発展が始まったのです。
壺屋地区に隣接する平和通り商店街。

終戦直後ここには闇市が建ち並んでいました。

闇市を整理してできたのが第一牧志公設市場。
現在では観光スポットになっています。

こうして市場が発展し、本島北部や離島からも人が集まってくるようになるのですが、土地は限られています。
そこで狭い土地を有効活用する究極の土地活用法が生み出されました。
公設市場周辺の商店街はよく見るとあちらこちらに段差が見られます。

国際通りから見る市場本通り(右:くまもんの看板)とむつみ橋通り街(左)の入り口。

実はこの間には川が流れていて、橋(むつみ橋)がありました。
上の写真の中央(HAPiNAHAの看板)には下に川が流れています。

川の上にある店舗は水上店舗と呼ばれ、水上店舗ができる前の風景はこんな感じでした(1950年代)。
ガーブ川と呼ばれる川の土手の両岸にバラックが建っていました。

戦後土地のない人たちがガーブ川の土手に小屋を建て商売を始めたのです。

水上店舗ができたきっかけはガーブ川に頻繁に起こる洪水でした。

岸の一方が低くなっていたので、川の水が溢れやすくなっていたのです。

そこで洪水を防ぐため、川を覆い、その上に建物(水上店舗)を建てました(1964年完成)。

川があったころから商売を営んでいた洲鎌徳次郎さん(86)。
宮古島から出てきてこの地で60年頑張ってきたそうです。

最後にガーブ川が見える場所にやって来ました。
タモリさんはニュー那覇を歩いてみて人間臭さを感じたそうです。

おまけ。
壺屋はネコの町としても有名。

タモリ「いい町だねぇ」

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