ブラタモリ、今回のテーマは「軽井沢はなぜ日本一の避暑地になった!?」。

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明治20年ごろの軽井沢。
標高900m前後の閑散とした平原。

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跡見学園女子大の安島先生の案内で旧軽銀座商店街を歩きます。
この通りは昔の中山道。
このあたりは軽井沢宿という宿場町だったそうです。

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旧中山道を”1日中山道(いちにちじゅうやまみち)”と読んだのは当時フジTVの女子アナだった有賀さつきさんという説がありますが、これは誤りで他局の女子アナだそうです。

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カフェの”脇本陣”という名前は宿場町だった痕跡の一つ。

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やけに奥行きがあるこの靴屋さんも宿場町の痕跡。

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江戸時代は間口に応じて税金が課せられたので、このように細長い敷地になったのだそう。

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江戸時代宿場町として栄えた軽井沢宿も明治になると、衰退してしまいます。
宿を使う大名がいなくなったことに加えて、南側に新道と鉄道ができたためです。

ところが大正時代には外国人と横文字の看板が多い街に姿を変えています。

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軽井沢になぜ外国人が住むようになったのでしょうか。
その答えは、軽井沢ユニオンチャーチにあるそうです。

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教会の代表理事クレイグさんによれば、アレクサンダー・クロフト・ショーという宣教師が涼しい高原の軽井沢を気に入り、一番最初(明治21年)に別荘を建てたのだそうです。
これがきっかけとなり、彼の仲間たちが次々と軽井沢に避暑に来るようになったということです。

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カーネル・サンダースに生き写しw
 
そして、このユニオン(共同)チャーチは避暑に来る宣教師たちのために建てられました。
教派を超えて集まれるよう、この教会には教派的な特色は排されています。 
 
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こうして明治の末期には外国人の別荘が約100軒あったのだそうです。

ここで街の変化を知るために、もう一度先ほどの靴屋さんに戻ります。

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実はこの靴屋さんは江戸時代に旅籠屋(旅館)だったのですが、宿場町の衰退とともに経営が苦しくなっていました。
先代が若いころ、外国人宣教師に勧められ靴屋になったのだそうです。

次にタモリさんたちは、現存する最古の別荘を見に行きました。
案内は神奈川大学の内田先生。
内田先生は日本近代建築の専門家です。

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これが明治26年に建てられた軽井沢最古の別荘。

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元海軍大佐の八田裕二郎氏が軽井沢に日本人初の別荘を建てました。
当時の別荘の多くは日本建築だったそうです。
 
続いてタモリさんたちが向かうのは、軽井沢の地形の特徴がよくわかる場所。
長靴に履き替えて、ボートに乗船します。
先導するのは日本大学の高橋先正樹生。
高橋先生は地質の専門家。

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川べりの地層に到着。

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この地層を調べると、約2万年前の地層は火砕流でできていることがわかります。
2万年前、軽井沢駅近くの離山(はなれやま)が噴火してできた地層だそうです。 
 
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 手前が離山、奥が浅間山

 もともと(約2万4000年前)軽井沢一帯は平坦ではなかったのですが、浅間山が崩れた土砂で川せき止められて湖ができ、湖底噴火によって湖が火砕流で埋められて広く平らな土地になったのだそうです。

明治時代に外国人の避暑地になった軽井沢ですが、大正時代になると日本人の別荘地としても発展します。
この発展の陰には、ある人物の戦略があったのだそうです。
 
もともと軽井沢は草原で木はあまり生えていませんでした。
この草原に植林して、緑豊かな別荘地にしたのは野沢源次郎という人物。 

貿易商だった野沢源次郎さんは外国の街並みを参考にして、別荘地軽井沢の新たな街づくりをしました。
最後はその痕跡がある場所を訪れます。

それが、この標識にある六本辻。

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今日本にも増えてきているラウンドアバウトと呼ばれる環状交差点です。
野沢源次郎さんがヨーロッパのような街並みを目指していたことがわかります。 
 
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まず、浅間山(離山)のおかげで高い標高に広い平らな土地ができたこと。
次に宣教師(外国人)たちが来て避暑地として開拓したこと。
最後に野沢さんが高級別荘地としての街づくりをしたこと。

タモリさんは日本一の避暑地、軽井沢ができた理由を以上3点にまとめました。

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