錦織圭選手のコーチとして日本でも知られるようになったマイケル・チャン氏(43)。
彼は1988年~2003年、アジア系テニス選手のパイオニアとして活躍した名テニスプレイヤーです。

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身長190センチ前後の欧米系の選手がざらにいる中、身長175センチのチャン選手は執念で拾いまくるテニスで大型選手のパワーに対抗しました。

① 1989年 全仏オープン4回戦 対イワン・レンドル戦

1988年に16歳でデビューしたチャン選手は1年半後には世界ランク19位。

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翌1989年に17歳で全仏オープンに出場します。

そして、4回戦で迎え撃つ相手は、当時世界ランク1位の帝王イワン・レンドル。

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レンドルは格上の実力を見せつけ、チャンは全く流れをつかめないまま2セット連取されてしまいます。
(5セットマッチなので、3セット取れば勝利)

しかし、チャンはあきらめていませんでした。
おりしも大会中に中国では政府による民主化デモの弾圧がおこなわれていました(天安門事件)。
天安門事件のニュース映像を目にした時の思いをチャンは、インタビューでこう語っています。
「(戦車の犠牲になった)彼が見せた勇気と霊感を僕も持たねばならない。それを原動力にして、出来るだけのことをやってみようと」

チャンは粘り続け徐々に試合の流れを変えてゆき、ついに帝王レンドルから1セットを奪い取りました。

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波に乗ったチャンは第4セットも奪取。
ついに2ー2のイーブンに。

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5セット目に入ってもチャンの勢いは止まらず、第1ゲームを取ってついにリードします。

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 ところが、ここでチャンに異変が起きます。

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脚が痙攣し、思うように動けなくなっていたのです。

審判に棄権を告げようとしたチャンですが、ここでまた天安門事件の光景が彼の脳裏に浮かびます。
戦車に立ち向かって希望を捨てなかった若者たちのように、自分にもコートにいる限り希望がある…。
自分にそう言い聞かせたチャンは、ここで3つの奇策をレンドルに仕掛けます。

奇策1.山なり返球作戦。

山なりのボールを返球して、時間を稼ぎ、脚の痛みが和らいだところで一気に勝負をかけます。

奇策2.アンダーサーブ

ジャンプもできずまともなサーブも打てなくなったチャンは、プロではまずありえないアンダーサーブを打ってレンドルの意表を突きます。
この作戦は見事に当たり、焦ったレンドルはミスをしてポイントを失います。

(本ブログ記事「マイケルチャンの伝説の一戦」にこの場面の詳細が掲載されています)

ついに試合は第5セット5-3でマイケルのマッチポイントを迎えます。
ここでチャンは最後の奇策に打って出ます。

奇策3.サーブレシーブで前に出る

レンドルはファーストサーブをフォルト(失敗)してセカンドサーブという場面。
ここでチャンは思い切り前に出てレンドルのサーブを待ちます。
この帝王をなめたようなありえないチャンの行動にレンドルは思わずイラッ。

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チャンの術中にハマったレンドルはセカンドサーブをフォルト。
試合は決まりました。
マイケル・チャンは、歴史に残る下剋上を完遂させたのです。

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② 1989年 全仏オープン決勝 対ステファン・エドバーグ戦

先のレンドルとの激戦に続き、準々決勝、準決勝と強豪を撃破したチャン選手は、ついに全仏オープン決勝戦に臨みます。
相手は4大大会に3度優勝している”貴公子”ステファン・エドバーグ。
華麗なサーブ&ボレーのプレイスタイルに加え端正なルックスで、当時絶大な人気があった選手です。

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持ち前のスピードと敏捷性で攻めるチャンは第1セットを奪います。

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しかし、第2セットからエドバーグの伝家の宝刀”サーブ&ボレー”が決まりだし、あっという間に2セットを奪われます。 
 
続く第4セットもエドバーグ優勢。
絶体絶命のピンチを迎える中、チャンのプレーに変化が起こります。

エドバーグの球筋に慣れてきたチャンは、自分が得意なラリー戦に持ちこめるようになってきたのです。

ラリー戦ではチャンのペース。
左右に振り回されたエドバーグは次第に体力を失っていきます。

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ペースをつかんだ第4セットをモノにした17歳のチャンの勢いは、最終第5セットでも衰えることがありません。 
驚異的な運動量とスピードでついに貴公子エドバーグを下します。
4大大会史上、最年少での優勝を果たしました。

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 ③ 1996年 全豪オープン決勝 対ボリス・ベッカー戦

17歳で4大大会優勝の栄光をつかんだチャン選手でしたが、その後の競技人生は決して順風満帆ではありませんでした。
1990年代の大型選手によるパワーテニス全盛の時代を迎え、小柄なチャン選手は次第に押されてゆきました。

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しかし、チャン選手はあきらめませんでした。
ケガのリスクを覚悟のうえで筋力をアップさせたり、サーブの破壊力を上げるためにラケットの長さを1インチ長くしたりと様々な工夫と努力を積み重ねます。 
再びじりじりとランキングを上げゆき、ついに1996年全豪オープン決勝にまでたどり着きます。

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対戦相手はボリス・ベッカー選手。
1985年にウインブルドンで史上最年少優勝(17歳7か月)を成し遂げたビッグ・サーバー。
パワーテニスの代表格ともいえる選手です。

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ベッカーに2セットを連取されましたが、第3セットはチャン選手が奪い返します。

ベッカーのパワーテニスに圧倒されながらも、必死で球にくらいついてゆくチャン選手の姿に次第に観客たちは魅了されてゆきます。

第4セット、次第にベッカー選手の優勢が色濃くなってゆくのとは裏腹に、チャン選手への声援の声は大きくなってゆきました。 

セットカウント1-3で敗れたチャン選手でしたが、この年のランキングは自己最高の2位でした。

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その後、体を大きくした負担が脚のケガにつながり、チャン選手は2003年に31歳でテニス選手を引退。

 引退後、トップ選手達のコーチ就任のオファーをすべて断ってきたチャン氏は、震災復興のチャリティ・イベントで錦織圭選手に出会います。

”同じアジア人として、感じるところがある”とし、錦織選手のコーチを引き受けました。
(このコメントの裏にはチャン選手や錦織選手が受けてきた人種差別問題があるのかもしれません)

こうして、アジア人初の世界ランク1位の夢をマイケル・チャン氏は錦織選手に託したのです。

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錦織圭 マイケル・チャンに学んだ勝者の思考
児玉光雄
サンクチュアリ出版
2014-12-12