タモリさんたちは再び吉祥寺駅前に戻ってきました。
ある出来事がきっかけとなり、吉祥寺に人が住み始める。
そのきっかけとは?
タモリさんは何でもご存知。
明暦の大火:明暦3(1657)年1月に起きた大火事
城・大名屋敷・市街地など江戸の大半を焼いた
この大火で水道橋あたりにあった「吉祥寺」というお寺も焼け、この門前町の60軒ほどが井の頭池の周辺に引っ越してきました。
吉祥寺村誕生。
吉祥寺に吉祥寺がないのは、名前だけが残ったから。
ここからは吉祥寺の街がどのように開発されたのかを見ていきます。
タモリさんが最初から気になっていた駅に対して斜めの道。
有名なハモニカ横丁。
バラエティー番組のロケでもよく登場します。
やっぱりここも斜め。
吉祥寺の町割りができたのは江戸時代。
五日市街道を基準にして町割りができました。
近代になり、東西にまっすぐ鉄道が通ったので線路に対して道が斜めになっているのです。
五日市街道を歩くタモリさんたち。
五日市街道沿いの脇道は街道に対して直角にまっすぐ伸びています。
五日市街道の両側にまっすぐ伸びる長い道は、実は江戸時代の住まいの痕跡でもあります。
江戸時代の敷地。
間口が狭くて奥に長い。
幕府は移住した人々に短冊状の土地を与えて開墾させた。
玄関がメインロードに面するよう街道沿いに敷地が並ぶ。
短冊状の敷地の長さを歩いて確かめてみる。
歩き始めて10分。
まだ道は続く。
江戸時代、500坪は激狭物件w
20分歩いてようやく敷地の端に着く。
敷地の間口は20間(約36m)、長さは634間(約1140m)。
玄関から1キロ以上ある敷地!
敷地の端には分水が流れている。
玉川上水から分けられた千川上水という分水です。
千川上水沿いにある野菜の直売所。
300年代々農家。
直売所の裏手は畑。
江戸時代、吉祥寺は江戸市中への野菜の供給地の限界だった。
明治以降、吉祥寺は急速に発展します。
そのきっかけは鉄道開通でした。
甲武鉄道(現在のJR中央線):
新宿ー八王子を結んだ
吉祥寺駅の開業は明治32年
しかし、鉄道開通には大きな問題がありました。
本日3度目の駅前。
象の鼻を持っている怪しい人は、吉祥寺サンロード商店街振興組合の安藤孝さん。
吉祥寺駅はもともとここにできる予定ではなかった。
五日市街道と交差する場所にできる予定だった。
ところが周辺住民の反対で駅ができなかった。
ではなぜ今駅がある場所はOKだったのか?
その理由は商店街を歩くとわかります。
商店街の中に忽然と姿を現したお寺。
門をくぐると広くて立派な月窓寺。
地図を見ると、五日市街道沿いに4つのお寺が隣り合っている。
この寺々も明暦の大火の後にここに移ってきた。
お寺にはこのように短冊状の広い土地が与えられていた。
駅の場所が問題になった時、お寺が土地の提供を申し出て今の場所に吉祥寺駅ができたのです。
駅が開業して17年後に井の頭恩賜公園が開園。
街は観光客で賑わうようになります。
関東大震災後、被害の少なかった吉祥寺に注目が集まります。
短冊状の土地は分譲しやすかったので、次々と家が建ち並びました。
こうして門前町でもある駅前の商店街は今に至る繁栄を遂げました。
商店街の特売のチラシ。
お寺の縁日に合わせて、商店街もバーゲンをやった。
井の頭公園を歩いていたら、ここに住みたくなる気持ちもわかってきた。
公園のそばだから吉祥寺駅ができたわけでない。
エンディング♪
新春(1月2日)は鶴瓶師匠とのコラボ番組です。