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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:黄門




続いてタモリさんたちがやってきたのは、水戸駅近くのとある場所

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番組恒例、ヘルメット装着。

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線路沿いに石切り場が…。

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ひたち通過。

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石切り場の洞窟に入ると、江戸時代に採掘したノミの跡がありました。

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凝灰質泥岩:火山灰を含む海底の泥が長い年月をかけて固まったもの
持ってみると軽い。

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水道にこの石を使った理由
・均質である
・板状に割れやすい
・重くないので運びやすい
・重くないので湿地帯でも沈まない
・濡れていれば耐久性もある

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城のお膝元にあった石を使った水道管。
”あるものを最大限に活用する”水戸精神の面目躍如です。

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 当時の水道管敷設工事をイラストで再現。

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タモリさんたちは再び水戸城の跡にやってきました。
 
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弘道館:天保12年(1841年)に創設された日本最大規模の藩校

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本来は偕楽園の梅祭りの4日間しか開かない弘道館の正門ですが、特別に開けてもらいました。

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あの尊王攘夷?

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目的はこちら、「大日本史」。

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大日本史:徳川光圀が編纂した歴史書
初代から100代目までの天皇の治世を記した
全402巻

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光圀が「大日本史」を編纂したのは学問の大切さを感じていたから。
学問は人材を作る。
人材という、あるものを最大限に活用する水戸精神です。

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編纂事業は明暦3(1657年)に始まり、明治39年(1906年)に完了。
実に250年も続けられました。

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この編纂事業のため、光圀は全国に人を派遣して資料の収集や研究にあたらせた。

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水戸黄門の諸国漫遊伝説は、この大日本史のために水戸藩士が諸国を渡り歩いたことがもとになっている。

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水戸黄門のドラマができたわけをタモリさん納得。

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この「大日本史」は幕末に全国50か所以上の藩校で教科書として使われました。
こうして光圀が亡くなった後も、その名は広まり人気が高まっていきました。

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茨城県・JR水戸駅前

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水戸といえば、黄門様。

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水戸黄門は諸国を漫遊していなかった。
鎌倉までしか旅をしていない。

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 そこに、水戸黄門と助さん格さんが登場。

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旅のお題を渡すためだけの贅沢なキャスティングw

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今回のテーマは「水戸黄門はなぜ人気があるのか?」

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最初の案内人は水戸教育委員会歴史文化財課の関口慶久さん。
関口さんによると、水戸黄門(=徳川光圀)は生きているときも大変に人気のある人だったそうです。

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徳川光圀が亡くなったときに江戸で生まれた狂歌。
水戸黄門は佐渡の金山と同等の天下の宝だった?

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徳川光圀(1628~1700)は徳川家康の孫。
水戸家は徳川御三家の一つ。

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タモリさんたちがやってきたのは、水戸駅の近くにある水戸城の跡
水戸城を知れば、水戸藩がどんな藩だったのかよくわかるそうです。

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水郡線(すいごうせん:水戸市と福島県郡山市を結ぶ路線)は水戸城の堀の跡を通っている。
堀の向こうは水戸城の本丸。

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 本丸跡は高校(県立水戸第一高等学校)になっています。

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赤い部分が本丸跡(高校)。

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現存している水戸城の門、薬医門。

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余分な装飾がなく、質実剛健。
水戸家の前の領主、佐竹義宣(1570~1633)が建てた門をそのまま受け継いでいる。
”あるものを最大限に活用する”のが水戸藩の藩風。
堀も土塁も水戸藩以前のものをそのまま流用しています。

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天守閣も質素。

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寛永20年(1643年)初代藩主頼房の収支記録。

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収支は大赤字。

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水戸藩主はほかの御三家に比べて圧倒的に江戸で暮らす期間が長かった。
 江戸と水戸の二重生活が財政の大きな負担になりました。

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借金の利息だけでも2300両(約3億円)!

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このような財政事情から、”あるものを最大限に活用する”精神が生まれた。

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