浅野祥雲さん(1891~1978)は出身地の岐阜で民芸品の土人形を制作していましたが、33歳で名古屋に移住。
自由に大きな人形を作りたいという思いから、コンクリートでの人形像制作を始めました。
以来コンクリート像一筋54年、亡くなる直前まで巨大コンクリ像を作り続けました。
今回の新3大を紹介するライターの大竹敏之さんによれば、祥雲さんの作品は東海地方を中心に758体存在するそうです。
そして、祥雲さんの作品の魅力は、”絶妙な顔の表情”にあるのだそうです。
① 愛知県犬山市 桃太郎神社
「子どもたちが喜ぶ作品を!」という依頼を受け、祥雲さんは桃太郎の名場面を人形で再現。
桃太郎の誕生から始まり、
お婆さんと竹下登似のお爺さんもいます。
成長した桃太郎は、
犬、サル、雉を引き連れ、
鬼が島で鬼退治。
お宝を持ち帰ります。
そして、この物語の最後に登場するのが、反省した優しい鬼…。
う~ん、ホントに改心したのでしょうか。
笑ってますが悪党面です。
私はこの鬼の顔を見て、この人を思い出しました。
「ダウンタウンのガキ使」などを手掛けた元日テレのプロデューサー、菅賢治氏。
② 愛知県日進市 岩崎御嶽山
祥雲さんが好んでモチーフにしたのが毘沙門天。
財宝を守ると言われる毘沙門天が邪鬼を踏み潰している構図は、他のお寺の毘沙門天像にもよく見られますが、祥雲さんはこの構図の像を何体も制作したそうです。
祥雲作 毘沙門天に踏まれた邪鬼
上の邪鬼は禍々しい表情で邪鬼らしさがよく表現されていますが、このシリーズの作品中には”謎の表情を持つ邪鬼”がいます。
それが、岩崎御嶽山にある毘沙門天像。
邪鬼をアップにすると、
まるで他人事のように頬杖をついて、遠くを見つめる邪鬼。
邪鬼というよりも、オッサンです。
大物顔ですが、どこか胡散臭い。
祥雲さん亡き今では、この邪鬼の詳細は不明なのだそうです。
もしかしたら、嫌いな知り合いをモデルにしたのかもしれません。
③ 愛知県南知多町 中之院
祥雲さんは14歳の頃、無縁仏の供養がしたくて仏像を作るために彫刻を学び始めたのだそうです。
彼が像を作る動機はもともとは「慰霊」。
その原点に立ち帰ったともいうべき作品が南知多町中之院の立像群です。
中之院軍人慰霊像(昭和12~18年)
昭和12年、地元名古屋で集められた100名ほどの部隊が中国に出兵したのですが、その多くは半月で戦死してしまったのだそうです。
悲しみに暮れる遺族たちが『帰らぬ家族の姿を形に残したい』という思いから、祥雲さんに像の製作を依頼。
生前の写真をもとに100体近い軍人たちのコンクリート像を完成させたのだそうです。
戦後進駐軍から「軍人像を破壊せよ」という命令が出たそうですが、管理するお坊さんが必死の抵抗をしてこの像を守り抜いたという逸話も残っています。
祥雲さんのコンクリート像には人間らしい優しさやユーモアに溢れています。
よくわからない現代美術よりは、人の心を動かすことのできる作品なのではないでしょうか。
自由に大きな人形を作りたいという思いから、コンクリートでの人形像制作を始めました。
以来コンクリート像一筋54年、亡くなる直前まで巨大コンクリ像を作り続けました。
今回の新3大を紹介するライターの大竹敏之さんによれば、祥雲さんの作品は東海地方を中心に758体存在するそうです。
そして、祥雲さんの作品の魅力は、”絶妙な顔の表情”にあるのだそうです。
① 愛知県犬山市 桃太郎神社
「子どもたちが喜ぶ作品を!」という依頼を受け、祥雲さんは桃太郎の名場面を人形で再現。
桃太郎の誕生から始まり、
お婆さんと竹下登似のお爺さんもいます。
成長した桃太郎は、
犬、サル、雉を引き連れ、
鬼が島で鬼退治。
お宝を持ち帰ります。
そして、この物語の最後に登場するのが、反省した優しい鬼…。
う~ん、ホントに改心したのでしょうか。
笑ってますが悪党面です。
私はこの鬼の顔を見て、この人を思い出しました。
「ダウンタウンのガキ使」などを手掛けた元日テレのプロデューサー、菅賢治氏。
② 愛知県日進市 岩崎御嶽山
祥雲さんが好んでモチーフにしたのが毘沙門天。
財宝を守ると言われる毘沙門天が邪鬼を踏み潰している構図は、他のお寺の毘沙門天像にもよく見られますが、祥雲さんはこの構図の像を何体も制作したそうです。
祥雲作 毘沙門天に踏まれた邪鬼
上の邪鬼は禍々しい表情で邪鬼らしさがよく表現されていますが、このシリーズの作品中には”謎の表情を持つ邪鬼”がいます。
それが、岩崎御嶽山にある毘沙門天像。
邪鬼をアップにすると、
まるで他人事のように頬杖をついて、遠くを見つめる邪鬼。
邪鬼というよりも、オッサンです。
大物顔ですが、どこか胡散臭い。
祥雲さん亡き今では、この邪鬼の詳細は不明なのだそうです。
もしかしたら、嫌いな知り合いをモデルにしたのかもしれません。
③ 愛知県南知多町 中之院
祥雲さんは14歳の頃、無縁仏の供養がしたくて仏像を作るために彫刻を学び始めたのだそうです。
彼が像を作る動機はもともとは「慰霊」。
その原点に立ち帰ったともいうべき作品が南知多町中之院の立像群です。
中之院軍人慰霊像(昭和12~18年)
昭和12年、地元名古屋で集められた100名ほどの部隊が中国に出兵したのですが、その多くは半月で戦死してしまったのだそうです。
悲しみに暮れる遺族たちが『帰らぬ家族の姿を形に残したい』という思いから、祥雲さんに像の製作を依頼。
生前の写真をもとに100体近い軍人たちのコンクリート像を完成させたのだそうです。
戦後進駐軍から「軍人像を破壊せよ」という命令が出たそうですが、管理するお坊さんが必死の抵抗をしてこの像を守り抜いたという逸話も残っています。
祥雲さんのコンクリート像には人間らしい優しさやユーモアに溢れています。
よくわからない現代美術よりは、人の心を動かすことのできる作品なのではないでしょうか。