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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:段丘

続いてやってきたのは宇治橋通り
室町時代から続くお茶の町のメインストリートです。

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ここを歩くと、宇治が天下一の茶どころとして栄えた理由がわかります。

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お茶のぱん。

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この建物の中にお茶で大きく繁栄した痕跡がある?

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左端の天ぷらさんの梁。

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隣の喫茶店の梁と天ぷら屋さんの梁は一つのものだった。

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長屋門:
江戸時代の上級武士の屋敷にみられる両側に居住スペースを持つ門

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この数軒並ぶ建物は、

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かつてはこのような長屋門だった。

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長屋門には茶師が住んでいた。
茶師とはお茶を扱う商人のこと。

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茶師はどこにいるのでしょうか?

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茶師は特権階級。
名字帯刀を許されていた。

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刀を脇に置いている茶師発見。

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宇治は幕府の直轄地。
将軍家にお茶を納める重要な場所だった。

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続いてタモリさんたちがやってきたのは宇治の町の南側。
ここで宇治茶のおいしさを生む栽培方法を探ります。

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室町時代から続く奥の山茶園
抹茶の原料「碾茶」を栽培しています。

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お茶の木はひと月ぐらい日陰で育てる。

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お茶のうま味成分テアニンは、

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日光が当たるとカテキンという渋みの成分に変わってしまいます。

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そこで、新芽の出る4月に覆いをかけ、うま味成分がより残るようにします。

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昔はよしずで覆い、その上に藁をかけていた。

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今ではほかの産地でもこの覆下(おおいした)栽培は行われているが、江戸時代には宇治のブランドを守るため、覆下栽培は宇治でしか認められていなかった。

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新芽が出始める頃はよしずで覆う。

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新芽がある程度成長すると藁を載せて日光の当たる量を調整します。

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簀下10日、藁下10日。

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宇治茶のおいしさの秘密は遮光によって旨味を引き出すという栽培法にありました。
しかし、宇治茶が天下一になった理由はこれだけではありません。
さらなる秘密は茶園がある地形にあります。

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続いて一行は奉行所があった場所にやってきました。
町で製錬された金はここに集まります。

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 金の生産過程が詳しく描かれた「佐渡金銀山絵巻」。
 
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最終工程は奉行所の中での小判鋳造。

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江戸初期の金の半分ぐらいは佐渡で生産されていたそうです。

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奉行所の立地は海岸段丘のヘリ、左右を川に挟まれた防御には理想的な地形です。

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当時の様子を再現したイラスト。
左端は草なぎくんだそう。

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佐渡の金の産出量が一番多かったのは、実は昭和15年(1940年)ごろ。

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金の産出量激増のヒミツを探りに、一行は海岸にやってきました。

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実はこの海岸には江戸時代質が悪くて捨てられた金鉱石が大量にありました。
(昭和15年当時の)最先端の精錬技術によって、この質の悪い金鉱石から金を取り出すことが可能になったのです。

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キセキの浜から採取された金鉱石は、トロッコで金の加工場まで運ばれました。

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これが当時走っていたトロッコ。

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地元の人の話によれば、当時浜に住んでいた人たちは金鉱石の採取のために家を移転させられたそうです。

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トロッコの終着点、北沢浮遊選鉱場
東洋一と言われた金の加工場。

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北沢浮遊選鉱場:1940年に完成。化学薬品を使い月5万tの金鉱石から金を分離した。

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土地の高低差を利用して、鉱石を下に降ろしながら小さくしていったそうです。

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加工場に適していた段丘があったこともキセキ。

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最後にタモリさん一行は、すべての景色が一望できるに行きました。
3キロ圏内に今日回った場所が収まっていました。

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黄金の島佐渡が、数々のキセキによって成り立っていたことがわかりました。


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宗太夫抗。

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おまけ
佐渡金山資料館。

6000万円の金塊!

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力があれば穴から金塊を取り出すことができる。
*取り出しても金塊はもらえません

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