Halohalo online

特にテーマは決まっていません。 興味のある記事があれば、ぜひぜひお立ち寄りを。

タグ:ブラタモリ









次にタモリさんたちが向かったのは、城の南側。
実はここにも彦根が”イイね”となった驚くべき仕掛けが隠されています。

a2

その秘密は城の南側を流れる芹川を見ればわかります。

a3

真っすぐに流れる芹川。

a4

航空写真で見ても琵琶湖まで直線的に流れている。

a5

芹川は人工的に流路を変えた川。

a6

天保7年の絵図を見れば、元の流路が推測できる。

a7

不自然に曲がりくねった町割りは、川を埋め立てた痕跡。

a8

城の南側はもともと川がいくつも流れる湿地帯だった。

a9

これを1本にまとめたのが芹川。

a10

川を付けかえれば、水浸しでなくなり、新しい土地を得られる。

a11

家康はこの土地をある特別な目的に使おうとしていた。

a12

その目的を知るため、次の場所に移動します。

a13

当時のままの細い道

a14

江戸時代の建物。

a15

この家は足軽の屋敷。
家康は川の付けかえでできた土地に足軽たちを住まわせていた。
足軽:鉄砲などで戦う下級武士

a16

足軽は集合住宅である足軽長屋に住むのが普通。

a17

彦根の足軽は戸建てに住む特別待遇。

a18

売り物件の足軽屋敷。

a19

足軽屋敷に潜入。

a20

彦根の足軽屋敷:
広さ50~70坪
門構えのある庭付き一戸建て住宅

a21

なぜ彦根の足軽屋敷はこんなに広いのか?

a22

江戸時代の初め、彦根藩は特別な任務を与えられていた。

a23

それは京都の天皇の警護。

a24

彦根から京都まで、陸路で1日半。
琵琶湖から船で行けば6時間。

a25

いざという時のために常に軍勢を維持しなくてはいけない。
実戦で重要なのは鉄砲隊(足軽)。

a26

ゆえに、彦根の足軽は優遇された。

a27

続きを読む









琵琶湖畔の道からスタート

a1

彦根といえば彦根城とひこにゃん。

a2

噂をすれば…。

a3

旅のお題は「なぜ家康は”彦根がイイ”と思った!?」

a4

去っていくひこにゃん。

a5

案内人は彦根市教育委員会の下高大輔さん。

a6

彦根城は誰の城?

a8

旅のお題はダジャレだったw

a7

家康は信用できる井伊に彦根城を任せた。
そして、彦根に目をつけたのは家康だけではなかった。

a11

山頂は佐和山城の本丸があった場所。

a9

城主は石田三成だった。
佐和山城と彦根城は1キロちょっとしか離れていない。

a10

家康だけでなく織田信長も豊臣秀吉も、信頼できる家臣にこの地を任せていた。

a12

天下を目指す者にとって彦根は絶対に押さえておきたい場所だった。
a14

まずタモリさんたちがやって来たのは彦根城の入り口
ここで彦根城の鉄壁の仕掛けを見てみます。

a13

攻めてきた敵に対する最初の備えが鐘の丸

a15

かつては塀や櫓がぐるりと張り巡らされ、石垣の上の広場には兵が配置されました。

a16

離合?

a17

「離合」で出身地を見抜かれるw

a18

離合:九州や山口の方言
狭い道ですれ違うこと

a20

真っすぐ山の上まで上がっていく大手道

a21

上り坂で地味にダメージを与えるw

a22

ここは下高さんの興奮ポイント。

a23

この袋小路の四方八方から弓や鉄砲が降り注いでくる。

a24

袋小路に追い込まれた敵は前後左右から鉄砲で狙い撃ちされる。

a26

全滅。

a25

続きを読む









タモリさんたちは信長の時代に城下町があった場所にやってきました。
ここでは平和を目指す信長にとって欠かせなかったものがわかります。

a1

案内をするのは岐阜大学の富樫幸一先生。

a2

信長の時代からあった堤防跡

a3

江戸時代の地図。
タモリさんたちは黒い線(堤防)が二股に別れたところにいる。
堤防の北側にある飛び地のようなものは何?

a4

現在の地形図で見ると少し高くなっていて、そばに長良川が流れている。

a5

実際にその場所に行ってみます。

a9

ここは戦国時代からあった港町

a8

長良川の中州を利用した川港。

a6

そしてこの港に運ばれていたものこそ、信長が戦を避けるうえで欠かせないもだった。

a10

和紙のお店。

a11

美濃和紙を扱う問屋が並んでいた。
長良川の上流は和紙の原料コウゾの産地。

a12

実物の美濃和紙。

a13

薄くて強い美濃和紙。

a14

外交でこの美濃和紙の書状を送れば、信長の評価が高まる。

a15

上質な紙で権威をアピール。
美濃和紙も信長流の平和外交でした。

a16

信長は、秀吉の妻ねねにも夫婦喧嘩の仲裁の手紙を書いていた。

a18

信長は意外と筆まめだった。

a19

タモリさんたちは紙問屋の面影を残すカフェに入ります。

a20

奥にある

a21

壁が厚いのは紙を保管するので湿気防止のため。

a22

大量の紙を保管するので天井も高い。

a23

信長亡き後も岐阜では和紙を使った産業が発達します。
提灯は岐阜の伝統的な工芸品。

a24

岐阜提灯は初耳。

a26

岐阜和傘もあります。

a28

ポスターに使えそうなショット。

a29

紙を使った工芸品を作るお店に入ります。

a30

岐阜うちわ。

a31

ただ一つ残る手作りの工芸品の店。

a32

水のような透明感があるから「水うちわ」。

a33

水うちわ:
繊維の細かい和紙に天然のニスを塗り
透明感を出した岐阜独自の工芸品

a34

近江アナ、うちわの仕上げに挑戦。

a35

なんか良くない音がしたw

a36

ホヘw

a37

続きを読む









長良川の鵜飼観覧船からスタート。

a1

寒そう。

a2

撮影は10月ですが、この日は風が強かった。

a3

長良川の鵜飼:
毎年5月から10月にかけておこなわれ、国内外から10万人以上訪れる

a5

案内人がタモテバコを持ってくる新パターン。

a4

旅のお題は「岐阜は信長が夢見た”平和の都”!?」

a6

案内人のクリス・グレンさんは在日26年。
戦国時代の岐阜を研究して世界に伝えています。

a7

タモリさんたちの現在位置。
名古屋から北に30km、長良川が流れる岐阜市。

a8

織田信長が天下統一への第1歩として拠点を置いたのが岐阜。
実は岐阜という地名も信長が決めました。

a9

確かに信長は”冷酷”というイメージはある。

a10

天下布武は平和のため?

a11

鵜飼はおもてなし?

a12

鵜飼を接待に使った信長。

a13

かがり火で鮎が驚く。
鮎がパニくったところを鵜が捕まえる。

a14

鵜が獲った鮎を鵜匠が吐き出させる。

a16

おいしそう。

a17

タモリさんによると味が濃いそうです。

a19

信長が平和を愛した証拠は岐阜に残されている。

a20

まずタモリさんたちが向かったのは信長が拠点とした岐阜城。

a21

岐阜城は金華山(標高329m)の頂にあります。

a22

ロープウェイ乗り場

a23

猫も杓子もハロウィーンw

a24

その昔ムッシュかまやつは日本でハロウィーンを流行らせようとして日本ハロウィーン協会を作った。

a25

NHK(日本ハロウィーン協会)w

a26

急こう配をロープウェイで登る。

a27

岐阜城を案内をするのは岐阜城山上石垣整備推進協議会の柴田正義さん。

a28

続きを読む









島が半島になった理由を知るために、タモリさんたちは砂浜にやってきました。

a1

島をつなぎ半島を作ったのは、波や風で運ばれてきた砂でした。

a2

磁石大好き近江アナw

a3

砂質をチェック。

a7

磁石に砂鉄がたくさんつく。

a5

大収穫♪

a8

この砂鉄はどこから来たのか?

a10

砂鉄は溶岩や火山灰に含まれる磁鉄鉱が細かく削られてできたもの。
富士の樹海の回では、富士山の溶岩に磁石が吸いつきました。

a9

室蘭は太平洋と噴火湾の沿岸を流れる潮の合流点。
砂の溜まりやすい場所でした。

a11

そこにあった水中火山が削られて砂となり、島をつないだのです。

a12

これも水中火山が室蘭にもたらした奇跡。

a13

続いてタモリさんたちは現在の街の中心から離れた港の北側にやってきました。
ここでは室蘭がどのように発展したかがわかります。

a14

室蘭の語源は、ムロエランもしくはモルエラ二。

a15

ムロラン地名発祥の坂

a16

モルエラニとは”小さな坂を下ったところ”。

a17

この坂が室蘭発祥の坂。

a18

室蘭の歴史に詳しい室蘭市教育委員会の谷中さん。

a19

小さな坂を下ったこの場所がかつての室蘭の中心地だった。

a21

このあたりを描いた江戸時代の絵図。

a22

かつてここには会所があった。
会所:江戸時代幕府の直轄地になった蝦夷地に置かれた出先機関

a20

江戸時代後期、幕府の直轄地だった北海道の各地には会所が置かれました。
そこではアイヌの人たちと交易が行われ、やがて町の中心地となってゆきました。

a23

ここに会所が置かれたのは、交通の要衝だったから。

a24

船で運ばれてきたものはここから内陸へ。
近郊でとれた交易品はここから本州へ。
幕府は陸運と水運がつながる道を整備したのです。

a25

明治5年ごろのこのあたりの写真。

a26

会所とアイヌ人の家。

a28

船をつけやすい遠浅の海。

a27

明治になると大きな船がつけられる十分な水深がある港が必要になりました。
室蘭は水深が異なる港を2つ持っていたことで、時代を超えて良港であり続けられたのです。

a29

続きを読む

このページのトップヘ