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ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:ブラタモリ


ここは明日香村。

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歴史上は”飛鳥”と書いて「あすか」。

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現在位置確認。

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旅のお題は「なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?」。

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案内人は、奈良大学の相原嘉之先生。

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確かに歴史で飛鳥時代はあったけど、何を習ったか覚えていない。
大昔だから、わからないことも多いんだろうな。

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日本の都の変遷(主なもの)。

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飛鳥で戸籍、税、貨幣といった国の礎が作られた。

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大化の改新(乙巳の変)ごっこ始まりました。

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中大兄皇子&中臣鎌足に討ち取られた蘇我入鹿。

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蘇我入鹿暗殺事件が乙巳の変。
その後の政治改革が大化の改新。
学校では2つまとめて大化の改新と習ったような気がする。

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第162回 奈良・飛鳥

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当時大きな権勢を誇っていた蘇我入鹿とはどんな人物だったのでしょう?

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石舞台古墳。
思い出した、中学の修学旅行でここに来たわ。

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古墳をCGで再現。
石舞台はいわゆる石室だったのね。

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ここは蘇我氏のお墓だそうです。

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一般人はおいそれとは入れないんだろうな。

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巨大な石室は蘇我氏の強大な権力の証。

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古墳デビューが石舞台。
こんな大きな石室は他にない。

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「石が礎(いしずえ)」
でもまあその通りじゃないかな。

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次にタモリさんたちがやってきたのは、石舞台古墳から1.5キロの場所にある集落。
蘇我氏が作った”あるもの”とは?

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案内をするのは奈良文化財研究所の西田紀子さん。

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お寺の今月の標語。
タモリ倶楽部でもやってたな。

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「のぞみはありませんが、ひかりはあります」
もう大喜利だなw

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庭石が飛鳥時代の礎石なんて渋すぎる。

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礎石アップ。

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昔は地面を掘って柱を埋め込むのが一般的。

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日本で初めて礎石を用いた建物とは?

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日本最古の本格的寺院、飛鳥寺。

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現存する日本最古の仏像。
609年生まれの1412歳w

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蘇我氏は仏教を国造りの根幹にしようとした。

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タモリさんたちは東院伽藍のすぐ近くにやってきました。

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ここで見るべきポイントは高低差。

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住所は法隆寺北。
東院伽藍から西院伽藍に向かって歩いています。

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西院伽藍の五重塔が高い場所にあるように見える。

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法隆寺は地盤がしっかりしている尾根を削って建てられている。

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地盤がしっかりした場所に建てないとピサの斜塔みたいに傾いてしまう。

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法隆寺は当時の都、飛鳥から20kmも離れている。

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なぜ聖徳太子は斑鳩に法隆寺を建てたのか?

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タモリさんたちは斑鳩の立地を探るため、7キロ離れた明神山にやってきました。

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法隆寺の背後に比叡山が見える。

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右手には東大寺と若草山。

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大阪方面を見ると淡路島と明石海峡大橋が見える。

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ところどころ森のように見えるのは百舌鳥古市古墳群。

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あべのハルカスもみえる。

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大阪平野と奈良盆地、両方の名所を一望できる絶好のロケーション。

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ここを流れる大和川は、かつては海の玄関口の難波までつながっていた。
都から船で海を目指すとき、斑鳩は必ず通る場所。

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斑鳩が交通の要衝だったから、聖徳太子は法隆寺を斑鳩に建てた。

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また、随からの使者が大和川を上って斑鳩を通るとき、法隆寺を目にすることになる。

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法隆寺は国際的に認められるためのシンボルとしての役目も果たしました。

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新人さんの感想。

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エンディング♪

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次回(4月18日)は奈良飛鳥です。

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今日は奈良の法隆寺。

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浅野里香アナ。

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積極的に距離をつめてくるタイプ。

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タモリから見れば生まれたて。

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法隆寺は飛鳥時代、607年創建とされる。

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旅のお題は「なぜ法隆寺は1400年愛され続けるのか?」

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案内人は斑鳩町教育委員会の平田政彦さん。

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法隆寺は誰が作った?

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1万円札の顔が聖徳太子から福沢諭吉になったのは、1984年。
20代では知るわけない。

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聖徳太子(厩戸皇子)は仏教を政治の中心におき、外交にも尽力した。

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第161回 法隆寺

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法隆寺境内図。
西院伽藍と東院伽藍がある。

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西院伽藍。
世界最古の木造建築です。

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ブラタモリパワーで本尊のある金堂へ。

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釈迦三尊像。

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釈迦三尊像の両サイド2体は東京に出張中。

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飛鳥時代の四天王像は鬼を踏んづけていない。

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10円切手にもなった観音様の壁画。

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釈迦三尊像の裏側に文字が書かれてる(光背銘文)。

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「尺寸王身」
聖徳太子の等身大。

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このお釈迦様は聖徳太子の等身大。

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聖徳太子は本尊を自分にした?

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タモリさんたちは長崎県の島原半島へ移動。
ここも潜伏キリシタンとゆかりの深い場所です。

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天草から島原は船で行くと近い。

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天草側と島原側の潜伏キリシタンが一揆の相談をした場所。

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島原天草一揆の総大将天草四郎時貞は海の上を歩いて渡ったという伝説がある。

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1637年 島原天草一揆

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一揆軍の原城の本丸。

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案内人は奈良大学の千田嘉博先生。
お城といえばこの人。

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一揆軍37000人、幕府軍125000人。
それぞれ丘の上を陣取って相対する。

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本丸の石垣。

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道に沿って歩くと左に曲がらざるを得ない。

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こういうクランク状の道をなんていうでしょう?

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枡形で正解。
卒業試験も無事突破。

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何度も曲がらなければならない構造になっている。

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本丸はいくつもの枡形によって守られている。

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原城の側面。
30mほどの高さがある。

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鉄壁の原城に籠もった一揆軍と幕府軍の激しい戦いはなんと3ヶ月も続く。

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3ヶ月にも渡る籠城の中で、水はどうやって確保していたのか?

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海水を真水に変える技術は現代でも難しい。

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原の本丸内には池があった。

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池の向こうはすぐ海。

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現代女子の発想w

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なぜこんなところに池ができたのか?
その理由を探りに崖を見に行きます。

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原城海側の崖。

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地層の下の方は泥岩。

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地中に染み込んだ水は水を通しにくい泥岩層を伝って隙間から湧き出し池ができた。

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なぜ2つの地層があるのか?

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熊本県天草市・崎津からスタート。

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今回はファイナルリンダです。

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このあたりを含め広範囲が世界遺産に登録されてます。

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潜伏キリシタンって初めて聞いた。
隠れキリシタンのポリコレ?

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南蛮柿と書いて無花果と読む。
どっちにしろ知らないと読めないw

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天正遣欧少年使節(1582年)が初めて南蛮柿を日本に持ち込んだ。
潜伏キリシタンの町らしいエピソード。

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教会の前の音楽隊(16世紀の西洋楽器を復元し演奏する)の方々。

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風景画?

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林田アナの演奏もこれが見納め。

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豊臣秀吉が3回アンコールしたと言われている曲(千々の悲しみ)を演奏中。

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江戸時代になるとキリスト教の取締が厳しくなってくる。

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1640年頃には宣教師が日本に入ってこれなくなる。

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案内人は、熊本大学の安高啓明先生。
江戸時代のキリシタン政策を研究。

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旅のお題は「なぜキリシタンは250年も潜伏できた?」。

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第160回 島原・天草

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江戸時代の崎津の地図。

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庄屋はキリシタンを取り締まることが仕事だった。

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板踏絵は多くの人が踏むと板が割れてしまう。

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ということで、真鍮踏絵が使われるようになった。

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私も痛い目に遭うぐらいならとっとっと踏むw

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実はキリシタンたちも真鍮踏絵になってからあまり心苦しくなく踏んでいたらしい。

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キリシタンにとって、ロザリオ(十字架の数珠)が重要。

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真鍮踏絵を作製したのが仏教徒だったために、ロザリオの重要性に気づかなかった。

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代々潜伏キリシタン、というのもすごいな。

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潜伏キリシタンの家系であることを知ったのは、2年前。

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潜伏キリシタンが世界遺産というスポットライトを浴びることになり、初めて父親が地方紙にカミングアウト。

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潜伏キリシタンはこの貨幣(寛永通宝)をあることに使った。
重要なのは形と数。

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