Halohalo online

特にテーマは決まっていません。 興味のある記事があれば、ぜひぜひお立ち寄りを。

タグ:アメフト

今回の新3大は、卓越した身体能力と技術で相手の防御網をやすやすと突破してしまう、ラグビー&アメリカン・フットボールの選手たちをご紹介。

run1

① 7人制ラグビーアメリカ代表 カーリン・アイルズ

7人制ラグビーはあまり強くなかったアメリカですが、そんなアメリカを支えるのがカーリン・アイルズ選手。

run2

アイルズ選手がラグビーを始めたのは3年ほど前から。
その前はアメリカ代表レベルの陸上短距離選手でした。

run3
 
100mを10秒24で走るアイルズ選手ですが、アメリカ陸上界には9秒台で走る選手がゴロゴロいます。
アイルズ選手は陸上を諦めて、ラグビーに転職。 
高校時代にアメフトの経験があったこともあり、わずか12週間でアメリカ代表に選ばれました。
 
run4
 
対イングランド戦
ボールを拾うと目の前の敵選手をステップでかわし、その後はスピードで守備陣を振り切ってしまいます。

run5
 
そのままトライ。
サイドライン際での爆発的な加速は黒人選手特有の走りでした。

run6
 
15人制ラグビーと同じフィールドで試合をするのでスピードがものを言います。

run17

 20m走ではウサイン・ボルトを凌ぐ速さだそうです。

run8

リオ五輪・7人制ラグビーでは、アイルズ選手のスピードに注目。

② ラグビー元ニュージーランド代表 ジョナ・ロム―

多くのラグビーファンが過去最高のラグビー選手と評するジョナ・ロム―。

身長195cm 体重118㎏
100m走10秒7

2度のW杯で15トライ(歴代1位)。

run9

”ハンドオフで加速”は?ですが、これはタックル回避の有効な技術。

run10

このガタイと身体能力があれば、NFLなら20億円プレイヤー?

run11

イングランド選手、ジョナ・ロム―に轢かれるw

run12
 
フランス守備網もロムーの突進力の前になす術なし。

run13

フィールドでは無敵のロム―も病魔には勝てませんでした。
腎臓病を患い、40歳の若さで逝去。

run14
 
ワールドカップ出場時は20歳で、銀行員だったそうです。 

run15

ブルーザー・ブロディは新聞記者というより、地方紙のフットボール欄のコラムニスト(もともとNFLの選手で、ケガで引退)。
その後プロレスに転職しました。
最近で言えは、ボブ・サップのような感じ。

run16

続きを読む

はるか昔の話ですが、高校時代はアメリカン・フットボール部に在籍していました。
大人になってからこの話をすると「(アメフトとは)珍しいですね」と言われますが、確かに全国的に数はそう多くありません。
野球やサッカーに比べれば、日本では超マイナースポーツです。
現在関東高等学校アメリカン・フットボール連盟に所属する東京都の高等学校は33校です。
私が高校生だった1970年代半ば頃も30校弱ぐらいだったので、数はそう変わっていません。
マイナーながらも高校フットボールはけなげに生き続けています。

私は高校生になったらラグビーでもやろうかと考えていたのですが、同じ中学出身の友達に誘われてアメフト部に体験入部をしました。

3年生たちが作った新しい部だったので、人数も少なくまだまだ同好会的な雰囲気が色濃い部活動でした。
先輩たちは優しいし、楕円形のボールを投げるのはオシャレな感じで面白く、私と友達はすぐに入部することにしました。
新入部員は私たちを入れて8人いました。

ny jets
伝説のQB NYジェッツ ジョー・ネイマス
 
何とか試合ができる人数にもなって、部としての体裁も整いつつあったアメフト部ですが、指導する人がいませんでした。
そこで部の顧問である50過ぎの地理の先生は、高校の近くの中学から経験者の体育の先生を監督として連れてきました。

N体育大アメリカンフットボール部出身の監督は34歳独身。
小柄な肥満体形で、ダルマのような顔をしていました。
アメフトをやっていたにしてはまるでパッとしない見てくれでしたが、私たちにとっては唯一無二の指導者です。

監督も最初は私たちの様子を見ていたのでしょう。
そう厳しいことも言わず、私たちの練習に時々を顔を出す程度でした。

ところが夏休みになって、監督は練習試合を決めてきたと私たちに言いました。
練習試合とはいえ、私たちにとって、いやJ高アメフト部にとっても記念すべき初めての試合です。

新入部員の私たちはようやく防具を着ることにも慣れ、最低限のルールを覚えたという程度ですが、人数が少ないので全員レギュラー参加です。

8月の下旬、私たちは防具の入ったバッグを抱えて試合場所の駒澤公園第2補助グランドに集合しました。

そこで私たちは初めて試合相手を目にしました。
彼らはトイレのそばの木陰で着替え中でした。
率直に言って、私たちとはまるで違うタイプの高校生でした。

部員の大半がリーゼントヘア、しかもかっちりパーマを当てた本格的なヤツでした。
ひときわ体の大きな人のリーゼントは特に立派で、固めて尖った前髪が額から黒々と突き出ていました。
後に知るのですが、その人はそのリーゼントの形から”グンカン”と呼ばれていて東京南西部の高校生の間ではちょっとした有名人でした。
地元では数々の武勇伝を残しているレジェンドです。

kishidan
ヘルメットをかぶっても大丈夫なのかと、これから自分の身に起こる不幸も顧みず心配してしまった

言ってはなんですが、私たちの高校は優等生のお坊ちゃん、お嬢ちゃんが集う進学校です。
今まで何の縁もなかった”不良”の高校生と突然”闘う”ハメになったのです。
試合前から目の前が暗くなりました。

しかも彼らはただの不良の集団ではありませんでした。
非常に良く訓練されたアメフトのチームでした。
彼ら、K学園はその年の秋の関東大会で優勝し、全国大会でも準優勝しました。

普通なら考えられないマッチングですが、ウチの監督は相手校の監督の大学時代の先輩らしく、この悪夢夢のような対戦を実現させたのです。

試合結果は言うまでもなく、惨敗でした。
102-0。
スコアを見てもわかるように一方的な試合展開でした。
アメフトでは3ケタ得点が入る試合はなかなかありません。

50人近い部員を擁する対戦相手のK学園にとっては、練習したプレイが機能するかどうかのちょっとした点検調整にすぎませんが、人数ぎりぎりで攻守出ずっぱり、炎天下のグランドで防具に身を固めた格好で右に左に振り回された私たちには地獄のような時間でした。
よくもまあ熱中症にならなかったものです。

言ってみれば、かませ犬にもならないような初試合でした。

体で覚えたことは、何万の言葉よりも身に沁みます。
自分たちが今までアメフトごっこをやっていたにすぎないことを思い知らされました。
体力、技術、総合力すべての面で私たちは明らかに劣っていました。

もうこんな怖くて危ないスポーツはやめよう、という気持ちと、ほんとうに悔しいという気持ちが半分ずつありました。
それは皆も同じ気持ちだったと思います。
でも、私たちはアメフトを始めたばかりです。
それに一人でも欠ければ試合もままなりません。
結局誰もやめることなく、目の色を変えて練習に没頭し始めました。
勝ち負け以前に、相手との接触があるスポーツはある程度のレベルに達しないと試合が危険だということを悟ったのです。

放課後の練習時間は変わりませんが、練習内容と全員の真剣味がまるで違いました。
部員同士の人間関係もお互いに厳しくなり、時としてギスギスした雰囲気が漂うようになりました。
しかし、私たちには同じ目標がありました。
タックル練習用のダミー(サンドバッグに似ている)にはK学園のジャージがかぶせられました。

この話を大人になってからすると、「まるでスクールウォーズの世界ですね」とちょっと下の世代に言われます。
スクールウォーズというドラマではダミーにジャージを着せてタックル練習をする場面があるそうですが、あのドラマは80年代のドラマです。
こっちは70年代、こちらが元祖なのです。

毎週末は他校との練習試合が組まれました。
最初に最強チームと試合をしたので、勝てないにしろどことやっても辛いということはありませんでした。
そして、徐々にもう少しやれば勝てるという手ごたえを感じられるようになり、1年の終わりごろには実際に勝つ試合もポツポツ出るようなってきました。

oj
バッファロー・ビルズ OJ・シンプソン 
当時私のアイドルでしたが、のちに殺人容疑で逮捕されました。


NFL伝説の100クォーターバック (B.B.MOOK―スポーツシリーズ (424))
アメリカンフットボール・マガジン
ベースボール・マガジン社
2006-07

 


 

このページのトップヘ