Halohalo online

ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

タグ:ものづくり









かつて陶磁器を運んでいた電車がどのように外堀を通っていたのかを体感してみます。

a1

名鉄瀬戸線:
昭和51年(1976)に外堀の区間は廃止
現在は外堀の地下を通っている

a2

名古屋人は略称好き?

a3

この先が瀬戸電名物のポイント

a4

直角に曲がっている。

a5

時速20kmで走ってもレールがきしむ。

a6

案内人の山田さんがこのポイントの鉄道模型を作ってきました。

a7

手作りの瀬戸電。

a8

進撃のタモリw

a9

続いて向かったのは西の端。
かつて瀬戸電の終点があった場所です。

a10

線路はここまであった。

a11

昭和46年に山田さんが撮った終着駅の写真。

a12

上の写真の電車横の石垣は今でもそのまま姿を残しています。

a13

電車は堀川のそばに来たかった。

a14

大正時代の写真。
右上あたりが瀬戸電の終点。
駅で降ろされた陶磁器は、堀川で船に乗せられ世界中に運ばれました。

a15

明治から昭和にかけて、陶磁器は名古屋の主要産業になりました。

a16

ところが産業が発展するにつれ、大きな問題が出てきた。

a17

昭和43年の堀川。
大混雑!

a18

タモリさんたちは堀川沿いを下流へ2キロ移動。
ここで渋滞を解消した工夫を探します。

a19

堀川と水門(右)。

a20

もう一つ水門が。

a21

水門が2つあるということは、コウモン?

a25

さりげなくセクハラ質問w

a22

もうあのコウモンしか思い浮かばないw

a23

コウモンとは閘門と書く。

a27

閘門:水位の違う川や運河を行き来するための施設

a24

ということは、向こうに水位の違う川がある?

a29

昭和5年、輸送能力の限界を迎えていた堀川のバイパスとして新たに巨大な運河を作りました。

a30

それが中川運河です。

a31

コウモンの中を覗いてみましょうw

a28

今は閘門の中は埋め立てられていますが、水があった当時の写真。

a32

堀川の渋滞の原因は輸送量の増加と”潮の影響”。
堀川は干潮になると船が通れないことがありました。

a33

そこで、中川運河を作った際、海側にも閘門を作り、潮の影響を受けないようにしました。

a34

中川運河ができたことによって堀川上流へ行く時間が大幅に短縮され、貨物の取扱量も増えた。

a35

続きを読む









名古屋港からスタート。

a1

ここはトヨタ自動車の積み出し港。

a2

今朝ホテルのエレベーターでトヨタの社長に遭遇したタモリさん。

a3

船に車を積み込むのはギャングと呼ばれる15人1組の作業員チーム。

a5

10㎝間隔で車を積み込む。

a4

黄色い車は積み込みを終えたギャングたちを連れ戻す。

a6

旅のお題「名古屋が生んだ”ものづくり日本”とは?」

a7

案内人は、6月放送の名古屋の回でもお世話になった名古屋市教育委員会の木村有作さん。

a8

都道府県別製造品の出荷額。
愛知県は38年間連続日本一。

a9

名古屋に自動車産業が生まれたのに、大きな役割を果たした川がある。
まずはその川を見に行きます。

a10

タモリさんたちがやって来たのは、港から北に8キロ、町の中心を流れる川です。

a11

ここで自動車産業と川の関係を探ります。

a14

丸太が船で運ばれているのはヒント?

a12

ここは前回の放送でも登場した堀川
堀川:名古屋城と海を結ぶ物流のため
江戸時代初期 人工的に掘った運河

a13

今タモリさんたちがいる場所は江戸時代は海の近く。

a15

あそこは何?

a16

木が渡してあり、石垣がある。

a17

大正時代の同じ場所。
水門のようです。

a18

ここは白鳥貯木場という貯木場でした。

a19

江戸時代の初め、木曽のヒノキが木曽川を下って名古屋に集まるようになり、ここに貯木場が作られたのです。

a20

かつて貯木場だった

a22

昭和45年ごろの白鳥貯木場。

a21

一番栄えたころは名古屋ドーム3.3個分(16万㎡)の広さがあった。
年間60万本もの木材が集められたという記録もあるそうです。

a23

ところで、木材の集積地とものづくりには何か関係があるのでしょうか。

a24

木材が集まる名古屋では、木材を使った加工技術が発展した。

a25

その加工技術の一例がこれ。

a26

お茶を運ぶからくり人形。

a27

続きを読む

このページのトップヘ