Halohalo online

ブログ再開しました。 以前ほど頻繁に更新できないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

2014年02月


私がこの世で初めてコンピューターというものを目にしたのは…そう大学3年生、1980年代初頭でした。

ゼミの研究資料の整理に、コンピュ-ターを使ったのです。
その当時大学にはコンピューターは理学部の研究室にしか置いてありませんでした。
文系の私らはパンチカードというものを持参して、理学部の研究室に行きました。
パンチカードを理学部の学生に渡して、「お願いします」で業務終了。

punch
パンチカード 未だに意味不明だが、入試の時に見たような…

薄暗い研究室の奥の方にバカでかい灰色の機械が安置されているのが見えたのですが、あれがコンピューターだったのだと思います。

その後、大学の事務局と新しい学部棟にテレビのようなものをちらほら見かけるようになりました。
今思えばあれがパーソナル・コンピューター(パソコン)だったのでしょう。

大学を卒業して広告会社に就職しましたが、私はコンピューターとは無縁の日々を送っていました。
ですがマーケティングという部署にパソコンはありました。
マーケティングの人たちがよく「フロッピーが…」と口にしていたのは覚えています。
彼らが手にしていた薄い黒い板がフロッピーというものだとはわかりましたが、何に使うのかは皆目わかりませんでした。

私が本格的にパソコンに出会ったのは齢30の時でした。
ちょうどバブルが始まりだした頃でしょうか。

私は縁あって、教育ソフトの制作会社に就職しました。
ここで初めてパソコンというものを触ったのです。
かの有名なpc98。
戦闘機で言えばゼロ戦みたいな名機です。

PC-9801RA2

まだ二十歳にもならないおねえちゃんに、パソコンの手ほどきをしてもらいました。
パソコンの起動とキーボードの操作ぐらいですが、やっと自分も現代人の仲間入りをしたような気分でした。

この会社は半年ほどで辞めてしまったので、結果的にはお給料もらってパソコン教室に行っておったようなことになりました。

自分のパソコンを初めて所有したのはそれからしばらくしてからのことです。
姉がオフィスで使っていたパソコンをお下がりで譲り受けたのです。
マッキントッシュ・ポータブル。

macportable
当時は100万ぐらいしたらしい

上の写真は1989年に発売されたこいつ(手前)と2010年リリースのマックのノートブック(奥)です。
昔の人は大きかったんですね。

kyojin

画面は白黒で字と線しか見られなかったのですが、これで結婚後の新居を見つけました。
思い出深い一品です。

義理の妹夫婦がプログラマーをやっていたので、結婚祝いにまたまたお下がりのパソコンをもらいました。
デルというメーカーの一品です。
dell
1996~98年頃のDell製品

パソコンでゲームをするということを覚えたのはこの頃です。

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トゥームレイダーシリーズは結局Ⅲが頂点かな

初めて新品のパソコンを買ったのは、2003年の春だったと思います。
富士通のFMV deskpower (20万弱だったと思う)。

fmv

テレビが見られるのがウリでしたが、結局これでテレビを見ることはほとんどありませんでした。
こいつは8年ほど使っていましたが、だんだん動作が重くなってくるのがしんどくなり、とうとう買い替えを決意しました。

そして、価格コムを見て驚いたのですが、高性能のノートパソコンが3万台で売っている時代になっていました。
FMVクンは廃棄するのも忍びなく(有料だし)、ネットで引き取り手を見つけました(あげくだ リサイクルユース情報)。

4トントラックで自宅に乗りつけたその人は千葉の農家の方で、電気自動車の制作もやっているという好奇心旺盛な人でした。 
ハードの中身を入れ替えて快適に動くようになりましたと、しばらくして報告を頂きました。

そして、現在私が使っているパソコンはこれです。
emachines

emachines E729Z
 
2011年購入で3万ちょっと。台湾のメーカーのものです。
価格が安い分、サポートが不十分という評価はありますが、今のところ問題はありません。

ただ、オンラインゲームなどをやるにはスペック不足で、もっとCPUが欲しいなどと、イッチョマエのことを考えています。

こうしてパソコンの歴史を振り返ってみると、価格と性能がすさまじい勢いで反比例していることが分かります。
パソコンのさらなる進化が楽しみですね。






短い期間ですが、私は沖縄県民だったことがあります。

① 冬でも暖かい
② 自然が豊か

主にこの2点に惹かれて、沖縄に住んでみようと思ったのです。

実際、この2点についてはその通りでした。

そもそも沖縄には本土でいうような冬は存在しません。
最も寒い2月の平均気温が17度。
少し日が差せば、たちまち気温は25度ぐらいになり、半そでで外を歩けます。
寒いのが苦手な私には天国のような場所でした。

私が住んでいた場所は那覇の新都心というところで沖縄ではかなり都会でしたが、自宅から30分歩くと海辺に行くことができました。
東京にいた私にとって、散歩がてらに(okinawaの)海が見られるという事実はかなりのゼイタクでした。

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那覇新都心 様々な施設が集中している

公園も東京のように狭くて人工的なものではありません。
私はよく那覇市内の末吉公園というところに散歩に行きましたが、ここはジャングルを切り開いて作ったような公園でした。
自宅近くの川沿いも公園になっていましたが、ここも緑豊かでよく大きな白い鳥が餌をあさりに来ていました。
那覇市とその周辺には他にも大きな公園がたくさんあります。

もちろん、那覇市周辺からもっと本島の北、あるいは離島にいけばますます自然は濃厚になっていきます。
私は本島中部の名護でイルカのジャンプを陸から見ることができました。

しかし、住んでみないと分からないこともいろいろあります。

家賃は本土に比べると割安ですが、食費はそうでもありません。
特に本土から来た食品は輸送費分割高になるようです。
野菜も沖縄産以外のものは当然高い。
スーパーはいろいろあるのですが、競争して値を下げているという雰囲気がありません。

家賃が安い分生活費は本土より安くなりますが、収入の下げ幅の方が大きいかもしれません。
実はこのあたりが多くの人が移住をあきらめ本土に戻ってしまう大きな要因になっています。

もう一つの問題はウチナーとナイチャーという言葉がキーワードになります。

ウチナーとは沖縄で生まれ育った地元民。
ナイチャーは本土から移住してきた人間です。

沖縄では露骨な人種差別があるわけではありませんが、区別は確かにあります。
明治まで琉球王国だった沖縄には、二重構造のアイデンティティがあるような気がします。
琉球人(ウチナー)としての私と日本国の沖縄県民としての私。
古くは中国、大和(日本)そして戦後はアメリカと大国に翻弄され続けてきた琉球の歴史を考えると、それは無理からぬことだとは思います。

いずれにせよ、本土と本土から来た人間に対して、ウチナーは多かれ少なかれ複雑な感情を持っていることは間違いありません。
旅行者ではなく生活者として沖縄に住めば、それはいたるところで実感できます。

テレビのローカルCМでは「ウチナーの~」というキャッチコピーが嫌というほど流れてきます。
若いコでも、本土のことをヤマトと言います。

一方、ウチナーグチ(沖縄方言)は廃れつつあります。
私が居たころはもっと沖縄の言葉を使いましょうという那覇市役所のキャンペーンがあり、市内報では(役所の)受付でハイサイと挨拶されても驚かないでください、と書かれてありました。
そう、割と有名なハイサイは少なくとも本島都市部では使われない言葉なのです。

ウチナーの女性と結婚して沖縄に住む東京出身のナイチャーと知り合いましたが、何年住もうがナイチャーはナイチャーなのだと聞かされました。
「悩んだ時期もあったけど、結局それを受け入れるしかない、と悟りました」
そう彼は私に言いました。

ナイチャー(よそ者)として割り切って生活する。
そして、仕事のやり方や価値観など、本土との文化の違いを受け入れる。
こういったことが沖縄に住み続けられるか否かの重要なチェック項目になると思います。

私は諸般の事情で東京に戻りましたが、沖縄移住の是非は一概には言えません。

経済的な問題をクリアーしておくことが一番大切だと思います。
労働環境は本土より良くありませんから、その点は十分承知しておいたほうが良いと思います。
年金や家賃などの不労所得で生活できるのなら、沖縄移住のハードルは低くなります。

いずれにせよ、沖縄が合わなかった場合のことを考えて、退路は用意しておくにこしたことはありません。

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沖縄そばと大東寿司 

ソチ五輪もいよいよ終盤に近づいてきましたが、ご覧になってますか?

私は首尾よくメダルを取れた人よりも、期待されながらうまくいかなかった人の方が印象に残ります。

例えば、スキージャンプの高梨沙羅ちゃん。

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小柄な体を直立不動にして、生真面目にインタビューに応える姿を見ていると、なんだか胸が痛くなってしまいます。

今回のソチ五輪ではメディアも一番彼女をフィーチャーしていたような気がします。

”ひいきの引き倒し”という言葉が思い浮かびます。

でも、まあ、まだ17歳です。

最初からうまくいくよりも、ちょっとつまづいた方が長い人生のためには良いかもしれません。

次頑張って…と言うとまたプレッシャーになっちゃうかな。

そして、浅田真央さん。

会心の滑りでフリーの演技を終えた後、泣き出した彼女を見てオジサンも思わずもらい泣きしてしまいました。

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「(フリーは)自分のためではなく今まで応援してくださった人たちに恩返しをするために滑ろうと思いました」

インタビューで彼女はそう応えていました。

メダルという我欲を捨て、他者に捧げる3回転ジャンプ6種という満願成就。

さすが菩薩顔の真央ちゃんです。

下世話な話ですが、彼女をCMに起用するスポンサーが多いのもうなづけます。

それから、長野五輪ではまだ少女だった上村愛子さんのモーグルも感無量でした。

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メダルは取れなかったけど、集大成の滑りを見せくれました。

女子ばかり名前を挙げているとただのスケベなオジサンになるので、男子にも触れます。

うーん…。

出てこない。

あ、スノーボードのハーフパイプでメダルを取った子たち…。

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スノボというと、ちょっと不良っぽいコたちがやっているイメージがありましたが、彼らはフツーの中高生ですね。

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そういうイメージの代表格 国母クン

お気に入りの音楽を聴きながら演技をするという、スノボの自由な雰囲気は私的には嫌いではないので、別に選手がドレッドヘアでも構わないのですが、普通の子が活躍するとやっぱりなんだかホッとします。

お父さんお母さんも子供に安心してスノーボードを買い与え、スノーボードの競技人口はこれからぐっと増えるかもしれませんね。


自宅でコーヒーを1日2杯飲みます。

飲む度にコーヒー豆を挽いています。
こう書くと本格的なコーヒー好きのようですが、そんなにこだわりはありません。
コーヒー豆は以前は近所の食料品店で購入していましたが、通販で買った方がずっと安いことに気づいてからはネットで注文しています。

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愛用の小さいコーヒーミル 

きろやというネット通販で特選ブレンドキロ1155円+送料400円計1555円(2014 2月現在)。
澤井珈琲ではプレミアムブレンドキロ1050円、3150円以上購入で送料無料(2014 2月現在)。
つまり、最安ランクのコーヒーを買った場合、まとめて3キロ購入すれば、澤井珈琲の方がキロ当たり105円お得ということになります。

今回は「澤井珈琲」のプレミアムブレンドを買ってみたのですが、味は「きろや」の方が好みです。
次回、価格を取るか味を取るか…。
悩むところです。
他にいいショップがあれば教えてください。

コーヒーが好きなのはもちろんですが、健康飲料として毎日いただいています。

昨今、コーヒーが体に良いという研究報告が世界中から続々と届いています。


・血糖値を下げる(糖尿病予防)

・ダイエットに効果的

・動脈硬化の予防

・肝臓ガン、肝硬変の予防

・皮膚ガンの予防

・うつ病の予防・軽減

ざっとあげただけでもこれだけあります。
しかもこれはただの噂ではなく、いずれもしかるべき機関(大学・研究所)の研究報告です。
どれもが真実かどうかはわかりませんが、これだけ体に良いとされる飲み物を飲まない手はありません。

私の場合、特に糖尿病予防の効果に期待しています。

最近、お酒の量を減らしたのはよいのですが、その分なのか甘いものを食べることが習慣になってしまいました。
毎日チョコレートを2カケラと夕食後のアイスクリームはかかせません。
コーヒーを飲むことにより、チョコやアイスを”なかった”ことにしてもらおうという魂胆です。

ほんとうは甘いものを控えるのが、一番良いのですが…。
そんなことはわかっているけど、やめられない。

甘いものをやめる意志は弱いけど、コーヒーを続ける意志は強いぞ。

これから、本日2杯目のコーヒーを入れます。

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ダイエットや糖尿病予防にはブラックで。砂糖やクリームを入れたら意味がありません。


他にも山手線で痴漢に遭ったり、逗子のゲイビーチで白いブーメランパンツを履いたカップルの熱い視線に見守れながら釣りをしたりと、10~30代の頃は組合系の方と遭遇することはしばしばありました。

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国内最古のゲイビーチ 小坪海岸 お尻が気になって釣りどころではなかった。

中年期になるとさすがにそういうことはなくなってきましたが、40代になってちょっとした知り合いになった人もいます。

40代の初め、私は新宿にある整体の学校に通っていました。

カイロプラクティスのクラスで、私はその人に出会いました。

年は同じぐらいで小柄でがっしりした体型、眉が太くて目も鼻も大きい。
声はしゃがれたバリトンで、なんとなく古代中国の武将を思わせるような風貌でした。
(ですので、仮にその人の名前は曹操にします)

そして、曹操は髪が長い。
ソバージュっぽい波打った髪は背中まで伸びていました。

最初の自己紹介では埠頭で重いものを運ぶ仕事をしていたが、腰を痛めたので整体への転職を考えていると曹操は言っていました。

髪が長いことを別にすれば、仕草も話し方もごく普通のオジサンでした。
ロックが好きな人にそんな髪型の人はいるので、ロングヘアもそう気にはなりませんでした。

ですから、その時は曹操が組合の人とは全く思っていませんでした。
特に仲良くなったわけではありませんが、時にはペアになってカイロの実技の練習もしました。
開業したらレーザー脱毛の機械を入れたいと言っていたので、そのことは印象に残っていました。

そのクラスの授業も終了し、私はしばらく曹操と会う機会はありませんでした。
彼に会わなくなってからしばらくして、私は曹操が組合員だということを他の学生に教えられました。
私はその話が嘘だとも思いませんでしたし、そう驚きもしませんでした。
ただ、ロングヘアの謎が解けたような気になりました。

ある日授業を受けていると教室の裏手にある喫煙所からあの特徴のある嗄れ声が聞こえてきました。
ほどなく授業が中休みになったので、私は喫煙所に行きました。
彼が学校を卒業し、店をオープンしたという噂を聞いていたので話を聞きたかったのです。

曹操は久々の再会を喜んでくれ、私に近況報告をしてくれました。

カミング・アウトをして学校中の人間が真実の自分の姿を知っていることはもう織り込み済みのようで、さらっとオネエ専門のレーザー脱毛と骨盤矯正の整体屋をオープンし、滑り出しも好調であることを話してくれました。
オネエは女性の幅広の骨盤に憧れているので、骨盤を横に広げる骨盤矯正(痛そう!)は結構需要があるのだそうです。

これから(有名な)新宿二丁目に営業をかけにいくのだが、ゲイバーにオネエたちが来るにはまだ時間があるので、ここ(学校)で暇つぶしているということでした。

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こういうイベントもある町だ

曹操は私に2枚の名刺をくれました。
一つは男性としての普通の名刺。
もう一つは組合員用の名刺。
こちらは名前も女性で、写真の雰囲気もかなりフェミニンでした。

それから、1,2度同じ時間帯に私は曹操と喫煙所で世間話をしました。

彼は以前と全く変わりない様子で話をしてくれるのですが、時折肩口に垂れた毛先を両の手で捩じるような仕草を見せることがありました。
曹操の英雄的風貌とそのガーリーな仕草にはギャップがありすぎ、それだけがちょっと怖かったです。

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 唐突ですが、仏女優レア・セドゥ ガーリー♪

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