今日は西陣に来ています。

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京都駅から北に6km。

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江戸時代のような町並み。

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本日のお題を予想。

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「織物の町・西陣はどうできた?」
ほぼ的中w

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西陣織は高級な織物のイメージ。

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結婚の儀で雅子様がお召しになっていた十二単は西陣織。

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赤坂の迎賓館 「花鳥の間」

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内装が西陣織。

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第139回 京都・西陣

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案内人は観光ガイドの鳥井光広さん。
西陣織ミュージアムにやってきました。

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西陣織の能衣裳。

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しげしげ。

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現代的な意匠だな。

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緯錦(ぬきにしき)。
紀元前200年頃の中国がルーツ。

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ビロード。
ポルトガル生まれの織物。

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もじり織。
かつて滅びた織り方を近代に蘇らせたもの。

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様々な織り方がある西陣織。

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西陣で織られれば、西陣織。

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西陣織の織り子さんの仕事場を訪問。

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やっぱりさっきのフクロウは現代人の作品だったんだ。

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見ているだけでも気が遠くなりそうな作業。

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水色の部分を織るときは…

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爪を使う。

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爪はヤスリで目立てをしてギザギザにする。

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爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)。

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西陣織の工程は細分化されている。

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西陣には各工程に特化した職人さんがいる。
焼酎のCMみたいだ…。

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なぜ西陣は”織物の町”になった?

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タモリさんたちは最初の案内人とお別れして、南東に約500メートル移動。

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次の案内人が待っていた。

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梅林秀行さんはブラタモリ8回目の登場。
京都の地形といえばこの人。

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応仁の乱の時、西の陣地があったから「西陣」。

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応仁の乱は室町後期、京都を戦場にした戦。

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戦ったのは、東軍の細川勝元と西軍の山名宗全。

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東軍と西軍の境界線は川だった。

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昭和30年代に暗渠化された川の痕跡を探しに行きます。

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橋の欄干を発見。

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橋の欄干がある場所は絵図のこの部分。

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さらに川沿いを進む。

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窪みのある岩は橋脚をすえていた礎石。

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百々橋(どどばし)想像復元図。

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東軍と西軍の間合いはわずか7メートル。

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こんな狭いところで東軍と西軍は戦っていた。

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山名宗全邸宅跡。

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西陣の地名発祥の地。

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ご近所同士の家督争いで始まった応仁の乱の戦火は全国に広まる。

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京都は焼け野原となり、逃げ出した人々の一部は大坂・堺へ。
貿易港堺で京の織工は世界最先端の織物技術に出会う。

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戦が終わり、京に戻った織工たちは最先端の技術を生かして織物を始める。
これが西陣織の始まり。

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しかし、そこからさらに西陣織が発展するには、もう一つ大きな理由があります。

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京都・西陣②に続く(月曜午後投稿予定)