天城越えの革命とは、旧天城トンネル。
現存しているものでは日本最長の石造りのトンネル。
天城山隧道:
全長約446mの石造りトンネル
明治38年に開通した
路線バス(大正5年):
大仁~下田を3時間でつなぎ
1日がかりの山越えを一気に短縮した
天城山隧道はそれまで分断されていた伊豆の北と南をつなぐ、歴史的な大事件でした。
石造りのトンネルを見てみます。
石を積み上げて作ったトンネル。
真ん中にある石が要石。
要石で左右に重力を分け合う。
下から石を積み上げ、最後に要石をはめ込みます。
要石は石の押し合う力を受け止め、アーチを支えています。
使われている石は35000個以上。
完成まで4年の歳月を費やす。
標高1000m以上の天城山の過酷な自然が立ちはだかりました。
冬は3m以上のつららができる。
極寒の天城山隧道。
オバケもでる?
トンネルは南と北の両側から同時に掘られた。
しかも重機はないのでほとんどがが手掘り。
それでもズレはほとんどない。
やっと南伊豆に。
さっきと同じように見えるが、トンネルの南側の入り口。
これだけの石をどこから運んできたのか?
戦争などがあって資料が残っていない。
石をよく見るとどこから来たのかがわかる。
緑色の石?
またしても海底火山。
凝灰岩:
水中に堆積した火山灰などが固まった石
おそらく近所で調達した石。
山道を登っていた時に話していたように、海底火山の石はもろい。
現存しているものでは日本最長の石造りのトンネル。
天城山隧道:
全長約446mの石造りトンネル
明治38年に開通した
路線バス(大正5年):
大仁~下田を3時間でつなぎ
1日がかりの山越えを一気に短縮した
天城山隧道はそれまで分断されていた伊豆の北と南をつなぐ、歴史的な大事件でした。
石造りのトンネルを見てみます。
石を積み上げて作ったトンネル。
真ん中にある石が要石。
要石で左右に重力を分け合う。
下から石を積み上げ、最後に要石をはめ込みます。
要石は石の押し合う力を受け止め、アーチを支えています。
使われている石は35000個以上。
完成まで4年の歳月を費やす。
標高1000m以上の天城山の過酷な自然が立ちはだかりました。
冬は3m以上のつららができる。
極寒の天城山隧道。
オバケもでる?
トンネルは南と北の両側から同時に掘られた。
しかも重機はないのでほとんどがが手掘り。
それでもズレはほとんどない。
やっと南伊豆に。
さっきと同じように見えるが、トンネルの南側の入り口。
これだけの石をどこから運んできたのか?
戦争などがあって資料が残っていない。
石をよく見るとどこから来たのかがわかる。
緑色の石?
またしても海底火山。
凝灰岩:
水中に堆積した火山灰などが固まった石
おそらく近所で調達した石。
山道を登っていた時に話していたように、海底火山の石はもろい。
この番組で調査をするうちに、面白い発見があった。
トンネルの北側で。
ですよねーw
タモリさんたちはトンネルの北側に戻ります。
北側の入り口を見てみます。
石は欠けていないし、黒っぽい。
玄武岩:
火山から噴出した溶岩が固まった岩の一種
北伊豆側と南伊豆側で使っている石が違う。
玄武岩はこのへんでは採れない。
わざわざここだけは良い石を使っている。
天城山隧道は南伊豆の人たちにとっての入り口。
「這ってでも越えたい」と思ったのは南伊豆の人たち。
つまり、天城山隧道の北側の入り口は、南伊豆の玄関口だった。
だから、良い石を使った。
伊豆が負担した工事費用の6割は南伊豆が出していた。
なぜ南伊豆の人たちはトンネルが欲しかったのか?
明治22年、東海道線が開通。
南伊豆の人が北に行くには、海路か難所の山を越えるしかない。
天城山に分断された南伊豆は陸の孤島になってしまった。
河津在住の稲葉修三郎さん(91)。
トンネルができたありがたさを語っていただきます。
そもそも天城を越えて北(江戸や京)に行くことは南伊豆の人たちの悲願だった。
稲葉さんが初めてトンネルを抜けたのが、昭和9年。
稲葉さんは8歳。
三嶋大社のお祭りを見に行くためだった。
トンネルを見て感動した。
河津在住だけにw
南伊豆の人にとってはこちらがやはり玄関口。
タモリさんたちが次に向かったのは、天城峠を南に下った坂。
天城越えをさらに進化させたもう一つの革命を見ます。
1978年にマグネチュード7ぐらいの地震がこのあたりを襲った。
伊豆大島近海地震(1978年)。
天城越えの道も崩落。
そこで造られたのが、このループ橋。
わかりやすい例えw
河津七滝(ななだる)ループ橋。
新たな天城越えの革命です。
1981年完成。
45mの高低差を一気に解消します。
天城越え終了。
「天城越え」は恋愛の歌だけど、
天城を越えることの重要性もわかっていた。
エンディング♪
鮎そば?
次回(5月26日)は萩です。
トンネルの北側で。
ですよねーw
タモリさんたちはトンネルの北側に戻ります。
北側の入り口を見てみます。
石は欠けていないし、黒っぽい。
玄武岩:
火山から噴出した溶岩が固まった岩の一種
北伊豆側と南伊豆側で使っている石が違う。
玄武岩はこのへんでは採れない。
わざわざここだけは良い石を使っている。
天城山隧道は南伊豆の人たちにとっての入り口。
「這ってでも越えたい」と思ったのは南伊豆の人たち。
つまり、天城山隧道の北側の入り口は、南伊豆の玄関口だった。
だから、良い石を使った。
伊豆が負担した工事費用の6割は南伊豆が出していた。
なぜ南伊豆の人たちはトンネルが欲しかったのか?
明治22年、東海道線が開通。
南伊豆の人が北に行くには、海路か難所の山を越えるしかない。
天城山に分断された南伊豆は陸の孤島になってしまった。
河津在住の稲葉修三郎さん(91)。
トンネルができたありがたさを語っていただきます。
そもそも天城を越えて北(江戸や京)に行くことは南伊豆の人たちの悲願だった。
稲葉さんが初めてトンネルを抜けたのが、昭和9年。
稲葉さんは8歳。
三嶋大社のお祭りを見に行くためだった。
トンネルを見て感動した。
河津在住だけにw
南伊豆の人にとってはこちらがやはり玄関口。
タモリさんたちが次に向かったのは、天城峠を南に下った坂。
天城越えをさらに進化させたもう一つの革命を見ます。
1978年にマグネチュード7ぐらいの地震がこのあたりを襲った。
伊豆大島近海地震(1978年)。
天城越えの道も崩落。
そこで造られたのが、このループ橋。
わかりやすい例えw
河津七滝(ななだる)ループ橋。
新たな天城越えの革命です。
1981年完成。
45mの高低差を一気に解消します。
天城越え終了。
「天城越え」は恋愛の歌だけど、
天城を越えることの重要性もわかっていた。
エンディング♪
鮎そば?
次回(5月26日)は萩です。
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