材木座海岸と和賀江島

800年前の海側の「まちづくり」を見るためにタモリさんたちがまずやってきたのは材木座海岸。

kamaumi3
 突風によろめく桑子アナ

ここで案内をしてくれるのは、神奈川災害考古学研究所の上本進二さんとNPO古田土俊一さんです。
 
 kamaumi1
”こだと”と読みます。栃木や茨城に多い苗字らしい。

古田土さんが海岸で探していたのは、鎌倉時代の器の破片。 
材木座海岸は遠浅の砂浜なので、川から流れてきた様々な時代の器の破片が岸に打ち寄せられるのだそうです。
 
kamaumi2
 
しかし、遠浅の海岸にはデメリットもあります。
それは、水深が浅すぎて船が入りにくいということ。
 
そこで鎌倉時代の人たちは港を築きました。

kamaumi4

「和賀江島」は日本最古の築港跡だそうです。

丹沢や伊豆・箱根から運んだ石を使い埋め立てをしたのです。
地元の石は風化に弱いので使えなかったようです。

kamaumi6

波食(触)台(波が削った海面近くの岩盤)の上に石を積み上げ、1ケ月で「和賀江島」を築きました。

kamaumi5

潮が満ちると、敷き詰められた石はほとんど海面の下に隠れてしまいます。

kamaumi7

「和賀江島」はその後何度も改修を加えられながら、鎌倉の海の拠点として使われてきたそうです。
 
 和賀江島築港による地形変化

続いて一行がやってきたのは、「和賀江島」のすぐ近くにある海沿いの道。
上本先生によると、和賀江島の築港によって、地形変化が起きたのだそうです。 

kamaumi8

海沿いの道を歩くと標高が3.7m⇒6.2m。
実は高い場所は昔の砂丘の上。

kamaumi9
 
和賀江島を作ったことにより、海岸に砂がたくさん堆積するようになったのだそうです。 
その砂によって沿岸の砂丘が大きく成長することになりました。

その地形変化の特徴を示しているのが一軒のお店。

kamaumi10

 「土手」という名前の蕎麦屋さん。

kamaumi11
 
お店のご主人に話を聞くと、このあたりが材木座の土地で一番高い土手だったとのこと。
土手は屋号だそうです。
関東大震災の際も津波はここ(土手)までは来なかったらしい。
ご主人はご先祖の供養のために「土手」の名を残したのだそうです。 

 
 大通りで”痕跡”を探す

最後に一行がやってきたのは、海から鶴岡八幡宮にのびる大通り。

umikama12

 鎌倉時代、”鎌倉中”の中で一番大きな砂丘がこの場所に在ったそうです。

umikama15

ここ(一の鳥居)を境に海側が前浜と呼ばれ、陸側は人が住む街になっていました。
海側の方は処刑場だったりしたようで、人骨がたくさん発掘されるそうです。

umikama14
 
来週も鎌倉です。

umikama18


中世都市鎌倉を掘る
網野 善彦
日本エディタースクール出版部
1994-05