はるか昔の話ですが、高校時代はアメリカン・フットボール部に在籍していました。
大人になってからこの話をすると「(アメフトとは)珍しいですね」と言われますが、確かに全国的に数はそう多くありません。
野球やサッカーに比べれば、日本では超マイナースポーツです。
現在関東高等学校アメリカン・フットボール連盟に所属する東京都の高等学校は33校です。
私が高校生だった1970年代半ば頃も30校弱ぐらいだったので、数はそう変わっていません。
マイナーながらも高校フットボールはけなげに生き続けています。

私は高校生になったらラグビーでもやろうかと考えていたのですが、同じ中学出身の友達に誘われてアメフト部に体験入部をしました。

3年生たちが作った新しい部だったので、人数も少なくまだまだ同好会的な雰囲気が色濃い部活動でした。
先輩たちは優しいし、楕円形のボールを投げるのはオシャレな感じで面白く、私と友達はすぐに入部することにしました。
新入部員は私たちを入れて8人いました。

ny jets
伝説のQB NYジェッツ ジョー・ネイマス
 
何とか試合ができる人数にもなって、部としての体裁も整いつつあったアメフト部ですが、指導する人がいませんでした。
そこで部の顧問である50過ぎの地理の先生は、高校の近くの中学から経験者の体育の先生を監督として連れてきました。

N体育大アメリカンフットボール部出身の監督は34歳独身。
小柄な肥満体形で、ダルマのような顔をしていました。
アメフトをやっていたにしてはまるでパッとしない見てくれでしたが、私たちにとっては唯一無二の指導者です。

監督も最初は私たちの様子を見ていたのでしょう。
そう厳しいことも言わず、私たちの練習に時々を顔を出す程度でした。

ところが夏休みになって、監督は練習試合を決めてきたと私たちに言いました。
練習試合とはいえ、私たちにとって、いやJ高アメフト部にとっても記念すべき初めての試合です。

新入部員の私たちはようやく防具を着ることにも慣れ、最低限のルールを覚えたという程度ですが、人数が少ないので全員レギュラー参加です。

8月の下旬、私たちは防具の入ったバッグを抱えて試合場所の駒澤公園第2補助グランドに集合しました。

そこで私たちは初めて試合相手を目にしました。
彼らはトイレのそばの木陰で着替え中でした。
率直に言って、私たちとはまるで違うタイプの高校生でした。

部員の大半がリーゼントヘア、しかもかっちりパーマを当てた本格的なヤツでした。
ひときわ体の大きな人のリーゼントは特に立派で、固めて尖った前髪が額から黒々と突き出ていました。
後に知るのですが、その人はそのリーゼントの形から”グンカン”と呼ばれていて東京南西部の高校生の間ではちょっとした有名人でした。
地元では数々の武勇伝を残しているレジェンドです。

kishidan
ヘルメットをかぶっても大丈夫なのかと、これから自分の身に起こる不幸も顧みず心配してしまった

言ってはなんですが、私たちの高校は優等生のお坊ちゃん、お嬢ちゃんが集う進学校です。
今まで何の縁もなかった”不良”の高校生と突然”闘う”ハメになったのです。
試合前から目の前が暗くなりました。

しかも彼らはただの不良の集団ではありませんでした。
非常に良く訓練されたアメフトのチームでした。
彼ら、K学園はその年の秋の関東大会で優勝し、全国大会でも準優勝しました。

普通なら考えられないマッチングですが、ウチの監督は相手校の監督の大学時代の先輩らしく、この悪夢夢のような対戦を実現させたのです。

試合結果は言うまでもなく、惨敗でした。
102-0。
スコアを見てもわかるように一方的な試合展開でした。
アメフトでは3ケタ得点が入る試合はなかなかありません。

50人近い部員を擁する対戦相手のK学園にとっては、練習したプレイが機能するかどうかのちょっとした点検調整にすぎませんが、人数ぎりぎりで攻守出ずっぱり、炎天下のグランドで防具に身を固めた格好で右に左に振り回された私たちには地獄のような時間でした。
よくもまあ熱中症にならなかったものです。

言ってみれば、かませ犬にもならないような初試合でした。

体で覚えたことは、何万の言葉よりも身に沁みます。
自分たちが今までアメフトごっこをやっていたにすぎないことを思い知らされました。
体力、技術、総合力すべての面で私たちは明らかに劣っていました。

もうこんな怖くて危ないスポーツはやめよう、という気持ちと、ほんとうに悔しいという気持ちが半分ずつありました。
それは皆も同じ気持ちだったと思います。
でも、私たちはアメフトを始めたばかりです。
それに一人でも欠ければ試合もままなりません。
結局誰もやめることなく、目の色を変えて練習に没頭し始めました。
勝ち負け以前に、相手との接触があるスポーツはある程度のレベルに達しないと試合が危険だということを悟ったのです。

放課後の練習時間は変わりませんが、練習内容と全員の真剣味がまるで違いました。
部員同士の人間関係もお互いに厳しくなり、時としてギスギスした雰囲気が漂うようになりました。
しかし、私たちには同じ目標がありました。
タックル練習用のダミー(サンドバッグに似ている)にはK学園のジャージがかぶせられました。

この話を大人になってからすると、「まるでスクールウォーズの世界ですね」とちょっと下の世代に言われます。
スクールウォーズというドラマではダミーにジャージを着せてタックル練習をする場面があるそうですが、あのドラマは80年代のドラマです。
こっちは70年代、こちらが元祖なのです。

毎週末は他校との練習試合が組まれました。
最初に最強チームと試合をしたので、勝てないにしろどことやっても辛いということはありませんでした。
そして、徐々にもう少しやれば勝てるという手ごたえを感じられるようになり、1年の終わりごろには実際に勝つ試合もポツポツ出るようなってきました。

oj
バッファロー・ビルズ OJ・シンプソン 
当時私のアイドルでしたが、のちに殺人容疑で逮捕されました。


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アメリカンフットボール・マガジン
ベースボール・マガジン社
2006-07